夜勤に入って三度目の秋だというのに、真緒はまだ廊下の暗さに慣れない。
消灯後の病棟は、機械の音でできている。点滴の落ちる電子音、遠くで鳴って自分で止まるアラーム、天井のセンサーがときどき灯す淡い明かり。ナースステーションの画面には、各室の眠りが波の形で並んでいた。誰が浅く、誰が深く眠っているか、触れなくても分かるようになっている。
六〇二号室の波だけが、今夜も平らだった。
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富子さんは、目を開けて天井を見ていた。
「眠れませんか」 真緒が小声で聞くと、富子さんはこちらを見て、少し笑った。 「もう、この歳になると。眠るのも仕事みたいでね」
枕元に、毛糸玉がひとつ転がっている。淡い、生成りの色。かたわらに、編みかけのものが置かれていた。マフラーになりかけの、細長い布。端のほうは目がそろっているのに、途中から急に、ゆるくなったり、きつくなったりしていた。
「それ」 「孫のね。ひ孫か。冬までにって思ってたんだけど」 富子さんは自分の手を持ち上げた。指が、そろえようとしても小さく震える。 「言うことをきかなくなっちゃって。情けない話」
真緒は、その手を見た。節の目立つ、大きな手だった。
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巡回の合間に、真緒はまた六〇二号室の前を通った。カーテンの隙間から、まだ明かりが漏れている。
声をかけると、富子さんは編みかけをたぐり寄せていた。一目、また一目。指が震えて、糸が針から落ちる。拾う。また落ちる。
「手伝いましょうか」 言ってから、真緒は自分でも驚いた。編み物なんて、したことがない。
「あなた、できるの」 「……できません」 富子さんが、今度は声を出して笑った。細い、けれど確かな笑いだった。 「じゃあ、教える。座って」
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二本の棒針が、真緒の手のなかで頼りなく揺れた。
「糸をこっちに掛けて。針の先で、すくうの。あわてない」 言われた通りにやってみる。指がもつれる。目が一つ、抜ける。 「あ」 「いいの。抜けたら、戻ればいい」
富子さんは、真緒の手の上に、そっと自分の手を重ねた。震える手だった。それでも、四十年も五十年も繰り返してきた動きを、指のほうがまだ覚えているらしかった。ゆっくりと、けれど迷いなく、真緒の指を導いていく。
かちり、かちり、と針の音がした。
窓の外で、虫が鳴いていた。名前は知らない。夏の終わりの、少し疲れたような声だった。
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真緒は、この病棟に来たばかりの頃を思い出していた。
先輩たちは、画面を見なくても患者の変化に気づいた。顔色、寝返りの回数、呼吸の間。真緒はいつも、モニターの数字を確かめてから、半歩遅れてうなずいた。数字が正常でも、なんだか胸がざわつく夜があって、けれどそれをどう言葉にしていいか分からなかった。自分の勘より、平らな波のほうを信じるくせがついていた。
「昔はね」 富子さんが、手を動かしながら言った。 「編んだものの重さで、その人が寒がりかどうか、分かったのよ」 「重さ」 「きつく編めば厚くなる。ゆるければ軽い。手が勝手に、その人に合わせるの。不思議でしょう」
真緒は、自分の編んだ数目を見た。きつい所と、ゆるい所が、まだらに並んでいた。誰にも合っていない、たどたどしい目だった。それでも、確かに、さっきより長くなっていた。
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ナースコールが鳴って、真緒は席を立った。
別の部屋を回り、点滴を替え、記録をつけ、戻ってくる。時計は三時を過ぎていた。夜のいちばん深いところ。廊下の機械の音だけが、変わらず続いている。
六〇二号室に戻ると、富子さんは眠っていた。
平らだった波が、いつのまにか、ゆるやかに上下している。深い眠りの形だった。編みかけのマフラーが、胸の上で静かに揺れていた。真緒の編んだ、まだらな数目のところが、いちばん上に来ている。
真緒は、毛糸玉を拾って、枕元にそっと戻した。糸が少し伸びて、床のほうへ垂れていた。それを、切らずに、玉のそばに巻いておく。まだ、続きがあるから。
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明け方、東の窓が白んできた。
夜勤明けの真緒の手には、消毒液のにおいと、うっすらと毛糸の油のにおいが残っていた。指の腹に、針を握っていた跡が、まだ少し残っている。
ステーションの画面では、六〇二号室の波が、静かに満ちていた。数字は、何も特別なことを伝えていない。眠れなかった人が眠っている、それだけのことだった。その理由を、画面は書かない。
真緒は、自分の手のひらを、しばらく見ていた。
冬までに、間に合うだろうか。分からない。間に合わなくても、いいのかもしれない。誰かの手から、また別の手へ。ひと目ずつ、渡していければ。
窓の外が、少しずつ色づいていく。虫の声は、もう聞こえなかった。