AI活用の教科書

銀杏

物語2026年9月5日4 分で読了執筆: 翔平

答えを出してくれる時代に、道に迷った人が、昔の先生を訪ねる。覚えていたのは、成績ではないものだった。

読み物近未来AIのある日常

 真希の指が、職歴の欄で止まった。四社目。書きながら、自分でも順番があやしくなる。

 画面の隅で、診断アプリが結果を更新していた。あなたに向いているのは「人と話す仕事」。先週は「ひとりで集中する仕事」と出た。同じ質問に、同じように答えたはずだった。三度目をやり直して、閉じた。

 窓の外を、各駅停車が通り過ぎていく。乗り換えの駅で、時間が四十分あいた。改札を出たのは、なんとなくだった。

 駅前の道は、覚えているより狭かった。パン屋がコインランドリーになり、文房具屋のあった角は、無人の受け取りロッカーが並んでいた。それでも、坂をのぼれば小学校があるはずだと、足が知っていた。

 小学校は建て替えられていた。校門のわきに、大きな銀杏だけが残っている。子どものころ、教室の窓からいつも見えた木だった。まだ緑を残した葉のあいだに、気の早い黄色が混じっている。

 その木を見上げていたら、通りかかった人に、浅野先生の名を聞かれて答えていた。坂の上の施設にいる、と教わった。行くつもりなど、なかったはずだった。

 浅野先生は、窓ぎわの椅子に座っていた。ずいぶん小さくなっていた。教壇でいつも背筋を伸ばしていた人だと、すぐには結びつかなかった。

「こんにちは」

 真希が名乗ると、先生はしばらく、真希の顔の少し上のあたりを見ていた。

「……三組の子かね」

「二組でした。三十年、前です」

「そうか。三十年」

 先生は、繰り返しただけだった。名前は出てこないようだった。真希は、それでいい、と思う一方で、少しだけ、こわばった。ここまで来て、誰かと取り違えられて帰るのだと、もう半分あきらめていた。

 テーブルの上に、施設の端末が置いてあった。今日の予定と、体温と、水を飲んだ回数が、静かに並んでいる。先生はそれを見ていなかった。

「あなた、」と先生が言った。「答えを、写さん子やったな」

 真希は、聞き返した。

「算数の。みんなが黒板を写しとるときに、あんたはひとりで、違うやり方でやろうとして、居残っとった。よう間違えて、よう消しとった」

 窓の外で、風が銀杏を鳴らした。

「先生、覚えて——」

「名前は、出てこん」先生は少し笑った。「けど、消しゴムのカスを、机の端に山にしとった子は、覚えとる。ノートが、いつも黒かった」

 真希の手が、膝の上で動いた。ノートの隅が黒くなるまで、何度も書いては消していた自分を、久しく思い出していなかった。誰かが用意した正解に、ずっと自分を合わせようとしていた。合わなくて、そのたびに書類の順番があやしくなった。

「遠回りやったやろ」

「……はい」

「ええことや」

 先生は、それだけ言って、また窓のほうを向いた。何を根拠に、とは言わなかった。ただ、そう置かれた。

 帰りぎわ、真希はもう一度、名前を言おうとして、やめた。先生の覚えているものが、名前ではないほうが、いい気がした。

「また来ます」

「うん。銀杏が、黄色うなるころに」

 坂を下りながら、真希は診断アプリを開かなかった。向いている仕事が何か、今日はどうでもよかった。写さずに間違えて、消して、また書いた。そのやり方を、まだ手が覚えているのかどうか、確かめてみたい気がした。

 銀杏の木の下で、足を止めた。一枚だけ、先に色を変えた葉が落ちていた。拾って、履歴書のあいだに挟んだ。乾いたら、栞にしよう。

 葉の縁が、指の腹に少しだけ引っかかった。まだ、緑の残る一枚だった。次に来るころには、どんな色になっているだろう。

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