赤い毛糸の輪を、トヨは手首にかけたまま忘れていた。
朝、ほどけたセーターの袖口を繕おうと思って出したきり、繕うのも忘れて、ずっとそこにあった。縁側の日が、その赤をひとつだけ明るくしていた。
ハツが来たのは、その日が傾きかけたころだった。杖の先が三和土をつく音で、来たのがわかる。四十年、同じ音だ。
「もう、あらかた片づいたよ」
ハツはそう言って、トヨの隣に腰を下ろした。よっこいしょ、の声が、昔より半分に小さくなっている。二人のあいだに、湯のみをふたつ置く。ひとつはハツの前へ。熱いのが得意でないのを、トヨは知っている。だから少しさましてある。
「明日、何時に出るの」
「昼の便。息子が迎えに来る」
庭の柿が、まだ青い実をひとつだけつけている。色づくころには、この家にハツはいない。トヨはそのことを、湯のみのふちをなでながら考えた。考えたが、口には出さなかった。
*
息子夫婦の家は、ここから電車を乗り継いで半日かかる。段差のない、新しい家だという。転ぶと危ないから、と息子が言ったらしい。廊下には、夜になると足元がひとりでに明るくなる仕掛けがあって、壁のどこかで、脈やら歩数やらを、だれかがずっと見ていてくれるのだと。
「便利なもんだねえ」とハツは言った。感心とも、あきらめともつかない声で。
トヨの家にも、去年、似たものが取りつけられた。台所の柱の上のほうで、小さな緑の光が、夜通し灯っている。息が乱れれば知らせが飛ぶのだと、役所の人が言っていた。トヨはそれを、一度も見上げたことがない。見上げたところで、光が返事をするわけでもない。
ハツが、トヨの手首の赤に気づいた。
「なんだい、それ」
「ああ、これ」
繕うつもりだった、と言いかけて、トヨはやめた。かわりに、輪をほどいて、両手のあいだに渡した。人差し指と、小指。もう片方の手で、すくう。指がうまく回らず、一度、落とした。
ハツが笑った。
「へたくそになったねえ」
「あんただって」
輪を拾い直して、もう一度かける。こんどはうまくいった。トヨの両手のあいだに、赤い橋がかかる。
*
あやとりを覚えたのは、二人ともまだ髪を三つ編みにしていたころだ。同じ長屋の、隣どうしだった。雨の日は、片方の家の上がり框に並んで座って、一本の毛糸をとり合った。橋。川。ほうき。田んぼ。うまく取れずに指がもつれると、二人で頭をつき合わせて、どこで間違えたかを探した。
橋を、ハツの指が受けに来る。
トヨの手のあいだにかかった赤い橋の下へ、ハツの親指と人差し指がもぐり込む。外から、内から、すくい上げる。トヨが指をゆるめる。ふっと、橋がハツの手へ移る。かたちが変わる。今度はハツの手のあいだに、細い川が流れている。
言葉はいらなかった。どちらの指も、次にどこをつまむか、もう知っている。手が覚えている。頭より、指のほうが、ずっと長くこれを覚えていた。
「これは、あの子らにはできないねえ」とハツが言った。
「一人じゃできないもの」
そうだ。あやとりのこの先は、一人ではほどけない。だれかが向かいにいて、受けてくれないと、川は川のまま、そこで止まってしまう。
トヨは、ハツの手から川を受け取ろうとして、指を伸ばした。伸ばして、止めた。
*
いつからか、日が短くなった。庭の隅が、もう藍色に沈んでいる。緑の光が、柱の上でまばたきをした。トヨは見上げなかった。
「向こうでも、やるかい」とトヨは聞いた。あやとりを、と最後まで言わずに。
ハツは、手のあいだの赤い川を見ていた。長いこと見ていた。それから、その川を、そっとトヨの指のほうへ差し出した。受けろ、というふうに。
トヨは受けた。四本の指で、赤をすくい上げる。かたちが変わる。二人のあいだに、また橋がかかる。
「だれか、教えるさ」とハツは言った。「息子の嫁でも、つかまえて」
できるだろうか。あの、忙しそうな嫁が、雨の日に上がり框で、一本の毛糸をとり合ってくれるだろうか。トヨにはわからなかった。ハツにも、たぶん、わからなかった。
橋は、二人の手のあいだに、まだ架かっている。どちらかが指を離せば、それはただの赤い輪にもどる。もつれた毛糸に。手首に巻いたまま、忘れられていたものに。
トヨは、指を離さなかった。
ハツも、離さなかった。
湯のみのお茶が、すっかりさめても、二人はそのままでいた。赤い橋の下を、暮れていく光が、ゆっくりとくぐっていった。