夜の十時をまわると、家のなかの音がひとつずつ減っていく。食洗機が止まり、居間のあかりが落ち、廊下の照明が人のいない場所から順に消えていく。多恵は流しの前で、最後の茶碗を伏せた。手の甲に、九月の夜の冷たさがあった。
二階から、細い音がしていた。
りいん、と鳴って、間があって、また、りいん、と鳴る。悠人の部屋のほうだ。
*
それが鈴虫だと気づいたのは、三日前だった。
夕方、悠人が学校から持ち帰った小さなかごを、多恵は玄関でちらと見た。理科で飼っていたのを、余ったから、と悠人はそれだけ言って、二階へ上がっていった。この春から、そういう言い方になった。用件だけを、こちらを見ずに置いていく。
中学に上がったころから、少しずつだった。おかえりも、いただきますも、返ってこない日がある。壁の向こうで音楽が鳴り、扉は閉まっている。多恵は、その扉の前で立ちどまる回数が増えた。ノックをする理由を、うまく見つけられないまま。
家じゅうの見守りは、画面が教えてくれる。悠人がいつ帰り、いつ眠り、部屋の温度がいくつか。台所のスピーカーに聞けば、二階のあかりが消えたことまで、静かな声で答える。けれど多恵は、この数日、それを聞かなくなっていた。
りいん、という音のほうが、たしかだったから。
*
鈴虫は、夜になると鳴いた。
悠人が起きている晩は、音の合間に、椅子のきしむ気配や、ページをめくる小さな音が混じった。眠ってしまった晩は、鈴虫だけが、部屋の暗がりで律儀に鳴いていた。
多恵は、廊下のいちばん下の段に座って、それを聞くようになった。何をするでもなく、膝を抱えて。りいん、りいん、と鳴る音は、壁を一枚へだてて、息子がまだそこにいることを教えてくれた。言葉のかわりに、それでよかった。
ある晩、音がしなかった。
二階は静かで、鈴虫の声もなかった。多恵は段の途中で耳をすませ、それから、そっと階段をのぼった。扉の下に、細くあかりが漏れている。まだ起きている。けれど、いつもの音がしない。
ノックをするか迷って、多恵は手をおろした。かわりに、台所へ戻った。冷蔵庫を開け、きゅうりを一本、うすく切った。理科で、鈴虫にはきゅうりをやるのだと、昔どこかで読んだ気がした。小皿にのせて、二階へ運ぶ。
扉の前に、皿を置こうとしたとき、内側から扉が開いた。
悠人が、立っていた。手のなかに、かごがあった。
「……弱ってる、みたいで」
久しぶりに、こちらを見て話した。声が、少しかすれていた。かごの底で、鈴虫が、羽をゆっくり動かしていた。
多恵は、皿を差し出した。悠人は、それを受け取って、かごのなかにきゅうりを置いた。ふたりで、しばらく、それを見ていた。虫は、切り口のほうへ、ためらうように近づいた。
「秋の虫だから」と、多恵は言った。「もう、そういう時期なのかもしれない」
悠人は、うん、とも、ちがう、とも言わなかった。ただ、かごを両手で包むように持っていた。小さいころ、拾った石やどんぐりを、そうやって持って帰ってきた手だった。ずいぶん、大きくなった手だ。
*
その晩、また音がした。
りいん、と、ひとつ。間があって、もうひとつ。
多恵は、階段の下の段に座って、それを聞いた。いつまで鳴くのだろう、と思った。この虫も、この音を聞く時間も。答えは、どこにも書いていない。台所のスピーカーに聞いても、たぶん、教えてはくれない。
扉の向こうで、椅子のきしむ音がした。
多恵は、少しだけ、笑った。冷たくなった手を、膝の上でこすり合わせて、もう一度、耳をすませた。