AI活用の教科書

足音

物語2026年8月1日4 分で読了執筆: 翔平

十五になった犬は、もう耳も目も遠い。それでも廊下の一歩を、この家で一番よく知っている。

読み物家族

 駅からの道は、記憶より短かった。

 芽衣は日傘を畳んで、実家の門をくぐった。八月の終わりの日ざしが、まだ肩に重い。玄関の引き戸に手をかけると、思ったより軽く開いた。母が油をさしたのだろう。

 三和土に立って、靴を脱ぐ。奥の廊下は薄暗い。エアコンの低い音の向こうで、爪が板をこする、かり、かり、という音がした。それから、間があいて、また、かり、と鳴る。

 ナナだ、とすぐに分かった。

 子どものころ、この家に帰ってくると、いつもナナが先に気づいた。門の外で芽衣が自転車を降りると、家の中でもう尾を振る音がしていた。玄関を開けきる前に、白い体が飛び出してきて、膝に前足をかけた。

 母はよく言った。あんたの足音だけは、どんなに遠くても分かるみたいねえ。

 あのころのナナは、跳ねるように走った。廊下を滑って、角で一度ぶつかって、それでもすぐに立ち上がって尾を振った。

 いまは違う。

 廊下の奥から出てきた犬は、ゆっくりと、一歩ずつ歩いていた。足の運びが、確かめるようだった。白かった毛は、鼻のまわりが薄い灰色になっている。目は、うっすらと青くにごっていた。

 芽衣がしゃがむと、ナナは鼻先を上げた。においを探すように、少し空を嗅いだ。それから、まっすぐに芽衣のほうへ来た。

 「よく分かったねえ」

 台所から母が出てきて、エプロンで手を拭いた。

 「耳もね、もうほとんど聞こえてないの。呼んでも来ないのよ。でも、あんたが廊下に立つと、こうしてね」

 ナナは芽衣の膝に、あごをのせていた。重たかった。昔のように跳ねる重さではなく、体をあずける重さだった。

 首輪に、小さな機械がついていた。母が説明した。心臓の速さとか、動いた時間とかを測って、母のスマートフォンに送るのだという。夜のあいだも、ナナがどこにいるか、画面で分かる。

 「便利なもんよ。この子が急に倒れても、すぐ気づけるって」

 母はそう言って、けれどすぐに言い足した。

 「まあ、たいてい、私のほうが先に気づくんだけどね」

 流し台の窓から、夕方に近い光が差していた。

 その晩、芽衣は縁側に座っていた。庭で、まだ蝉が鳴いている。数は、ずいぶん減っていた。

 ナナが、板の間をゆっくり歩いてきた。芽衣のとなりまで来て、体を丸めて横になった。芽衣の足の甲に、あごをのせる。あたたかかった。

 スマートフォンが、ぽん、と鳴った。母のものと同じ画面が、芽衣のほうにも入れてあった。ナナの心臓の速さが、数字で出ている。少し速い、とそこには書いてあった。落ち着かせてあげてください、と小さく出ている。

 芽衣は、画面を見なかった。

 手を伸ばして、ナナの背をなでた。骨が、前より近くに感じられた。ゆっくりと、首のうしろから、尾のつけねまで。ナナは、ふう、と息を吐いた。

 数字がどう変わったかは、見なかった。手のひらの下で、呼吸がゆっくりになっていくのが分かった。

 夜が更けても、暑さは残っていた。

 芽衣は自分の部屋に上がろうとして、途中でふり返った。ナナは、縁側で眠っていた。起こさないように、そっと立った。

 廊下を一歩、踏む。

 ナナの耳が、動いた。目は閉じたまま、片方の耳だけが、芽衣のほうへ向いた。

 聞こえていない、と母は言った。それでも、床を伝う何かを、この犬はまだ知っている。十五年、同じ廊下で、同じ足音を待ってきた。

 芽衣はもう一歩、踏まなかった。しばらく、そこに立っていた。ナナの耳が、こちらを向いたままでいるあいだ。

 いつまで、この足音を覚えていてくれるだろう。

 考えて、やめた。答えのある問いではなかった。

 芽衣は靴下のまま、そっと縁側にもどった。ナナのとなりに、もう一度、腰をおろす。板がきしんで、小さく鳴った。ナナが、尾を一度だけ、ぱたり、と振った。

 庭で、蝉が一匹、鳴きやんだ。

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