駅からの道は、記憶より短かった。
芽衣は日傘を畳んで、実家の門をくぐった。八月の終わりの日ざしが、まだ肩に重い。玄関の引き戸に手をかけると、思ったより軽く開いた。母が油をさしたのだろう。
三和土に立って、靴を脱ぐ。奥の廊下は薄暗い。エアコンの低い音の向こうで、爪が板をこする、かり、かり、という音がした。それから、間があいて、また、かり、と鳴る。
ナナだ、とすぐに分かった。
*
子どものころ、この家に帰ってくると、いつもナナが先に気づいた。門の外で芽衣が自転車を降りると、家の中でもう尾を振る音がしていた。玄関を開けきる前に、白い体が飛び出してきて、膝に前足をかけた。
母はよく言った。あんたの足音だけは、どんなに遠くても分かるみたいねえ。
あのころのナナは、跳ねるように走った。廊下を滑って、角で一度ぶつかって、それでもすぐに立ち上がって尾を振った。
いまは違う。
廊下の奥から出てきた犬は、ゆっくりと、一歩ずつ歩いていた。足の運びが、確かめるようだった。白かった毛は、鼻のまわりが薄い灰色になっている。目は、うっすらと青くにごっていた。
芽衣がしゃがむと、ナナは鼻先を上げた。においを探すように、少し空を嗅いだ。それから、まっすぐに芽衣のほうへ来た。
*
「よく分かったねえ」
台所から母が出てきて、エプロンで手を拭いた。
「耳もね、もうほとんど聞こえてないの。呼んでも来ないのよ。でも、あんたが廊下に立つと、こうしてね」
ナナは芽衣の膝に、あごをのせていた。重たかった。昔のように跳ねる重さではなく、体をあずける重さだった。
首輪に、小さな機械がついていた。母が説明した。心臓の速さとか、動いた時間とかを測って、母のスマートフォンに送るのだという。夜のあいだも、ナナがどこにいるか、画面で分かる。
「便利なもんよ。この子が急に倒れても、すぐ気づけるって」
母はそう言って、けれどすぐに言い足した。
「まあ、たいてい、私のほうが先に気づくんだけどね」
流し台の窓から、夕方に近い光が差していた。
*
その晩、芽衣は縁側に座っていた。庭で、まだ蝉が鳴いている。数は、ずいぶん減っていた。
ナナが、板の間をゆっくり歩いてきた。芽衣のとなりまで来て、体を丸めて横になった。芽衣の足の甲に、あごをのせる。あたたかかった。
スマートフォンが、ぽん、と鳴った。母のものと同じ画面が、芽衣のほうにも入れてあった。ナナの心臓の速さが、数字で出ている。少し速い、とそこには書いてあった。落ち着かせてあげてください、と小さく出ている。
芽衣は、画面を見なかった。
手を伸ばして、ナナの背をなでた。骨が、前より近くに感じられた。ゆっくりと、首のうしろから、尾のつけねまで。ナナは、ふう、と息を吐いた。
数字がどう変わったかは、見なかった。手のひらの下で、呼吸がゆっくりになっていくのが分かった。
*
夜が更けても、暑さは残っていた。
芽衣は自分の部屋に上がろうとして、途中でふり返った。ナナは、縁側で眠っていた。起こさないように、そっと立った。
廊下を一歩、踏む。
ナナの耳が、動いた。目は閉じたまま、片方の耳だけが、芽衣のほうへ向いた。
聞こえていない、と母は言った。それでも、床を伝う何かを、この犬はまだ知っている。十五年、同じ廊下で、同じ足音を待ってきた。
芽衣はもう一歩、踏まなかった。しばらく、そこに立っていた。ナナの耳が、こちらを向いたままでいるあいだ。
いつまで、この足音を覚えていてくれるだろう。
考えて、やめた。答えのある問いではなかった。
芽衣は靴下のまま、そっと縁側にもどった。ナナのとなりに、もう一度、腰をおろす。板がきしんで、小さく鳴った。ナナが、尾を一度だけ、ぱたり、と振った。
庭で、蝉が一匹、鳴きやんだ。