店の奥は、いつも少しだけ暗い。
宮本は、その暗さに目が慣れている。むしろ表の通りに出ると、しばらく世界が白く飛んで、何も見えなくなる。七十をいくつか過ぎたころから、目はゆっくりと、けれど確かに遠ざかっていった。輪郭がにじむ。細かい文字が溶ける。手元の歯車が、灰色のもやの中に沈む。
それでも、店は開けている。
古い柱時計が、壁で三つ、四つ、めいめいの速さで時を刻んでいる。振り子の音。ぜんまいの緩む音。宮本の耳には、それがひとつずつ、別の声として届く。目が閉じていく代わりに、耳が開いていった。そういうものらしい。
*
その日、若い女が入ってきた。
戸の鈴が鳴って、宮本は顔を上げた。逆光で、姿は影にしか見えない。年のころは、三十くらいか。声は、そう告げていた。
「あの、これ……直りますか」
差し出されたものを、宮本は両手で受け取った。腕時計だ。指の腹で、そっとなでる。革のベルトはくたびれて、ガラスに細かな傷がある。竜頭を回しても、手ごたえがない。ずいぶん長く、止まっていたのだと分かった。
「父のものでした」
女の声が、少し低くなった。
「去年、亡くなって。ずっと引き出しに入れたままで。でも、動くなら、私が使おうかと」
宮本はうなずいた。こういう時計を、何百と預かってきた。持ち主のいなくなった時計は、みな同じ顔をして持ち込まれる。直してほしいのか、動いてほしいのか、本人にも分かっていない顔だ。
「見てみましょう」
そう言って、宮本は作業台に向かった。
*
裏ぶたを開けるのに、少し手間取った。
以前なら、指が勝手に工具を選んだ。いまは、道具箱の中を手で探る。冷たい金属の並びから、爪でこじる形のものを選び出す。開いた。中の機械が、灰色のもやの向こうにある。歯車の一枚一枚は、もう、見えない。
宮本は、台の隅に置いた小さな箱に手を伸ばした。
去年、甥が置いていったものだ。時計の音を拾って、どこが悪いのかを言い当てる。そういう機械だという。「伯父さん、目が見えなくても、これがあれば」。甥はそう言って、使い方を紙に大きな字で書いていった。
宮本は、その箱に時計を近づけた。小さな明かりが灯る。しばらくして、箱が静かに言った。
「テンプの片ぎわに、わずかな引っかかりがあります。片持ちのほぞが摩耗しているか、油が切れている可能性があります」
正しいのだろう、と宮本は思った。この機械は、たいてい正しい。
けれど宮本は、箱をわきに寄せた。時計を耳のそばまで持ち上げて、目を閉じた。
*
竜頭を、ほんの少しだけ巻く。
死んでいた機械に、かすかに息が通う。宮本は、その最初のひと呼吸を、耳で捕まえた。
チッ、チッ、と刻む音の間に、ほんのわずか、ためらいがある。健やかな時計は、迷わない。等しい間で、淡々と時を刻む。この時計は、四つに一つ、息を継ぐように遅れる。ほぞが減っているのだ。箱の言うとおりだった。けれど宮本の耳は、箱より少しだけ多くを聞いていた。摩耗だけではない。長く止まっていた時計特有の、油の固まったにおいのような、こわばりがある。
そういうものは、数字にはならない。
宮本は目を開けないまま、手を動かした。見えない指が、勝手に覚えている。古い油をぬぐう。ほぞを、髪の毛ほどの分だけ整える。新しい油を、針の先で一滴。どこに落とすかは、目ではなく、長年の指が知っている。
女は、カウンターの向こうで、黙ってそれを見ていた。
「あの」と、女が言った。「その箱で、分かるんじゃ、ないんですか」
悪気のない声だった。宮本は、少し笑った。
「分かりますよ。よく当たる」
「じゃあ、どうして耳で」
宮本は、手を止めなかった。
「箱は、どこが悪いかを教えてくれる。けど、直ったかどうかは、こっちで聞かないと」
*
小一時間、女は店の中を見て回っていた。
壁の柱時計。ガラスケースの中の、古い懐中時計。どれも、宮本が長い年月をかけて集め、直し、また眠らせたものだ。値のつくものは、もうほとんど残っていない。息子はいない。弟子もとらなかった。とる気になったころには、この仕事を継ぎたいという若い者が、どこにもいなくなっていた。
いまは、あの箱がある。
音を聞かせれば、どこが悪いかを言う。手先の器用な者なら、箱の言うとおりに直せるのかもしれない。耳がなくても。長い年月がなくても。そういう時代に、なったのだろう。
宮本は、それを悪いこととは思わなかった。父の形見を、動く形で使いたい。その願いが、箱ひとつでかなうなら、それでいい。宮本自身、目が遠くなってから、あの箱に何度も助けられた。
ただ、と思う。手を動かしながら、ただ、と。
この時計が、四つに一つ息を継いでいたこと。長く眠っていた油が、どんなふうにこわばっていたか。それを聞き分けた耳のことは、たぶん、どこにも残らない。数字にならないものは、引き継がれない。
竜頭を巻ききって、宮本は時計を耳から離した。
*
「動きましたよ」
宮本がそう言うと、女が振り返った。
差し出された腕時計を、女は両手で受け取った。文字盤に、耳を寄せる。宮本がさっき、そうしたように。
「……動いてる」
小さな声だった。チッ、チッ、と、細い秒針が時を刻んでいる。もう、迷いはない。等しい間で、淡々と。
女の目が、うるんでいるのが、もやの向こうでも分かった。父の時計が、また時を刻みはじめた。それが、どういうことなのか。宮本は、何百回も、この場面を見てきた。けれど、慣れることはなかった。
「大事に、してください」
宮本は、それだけ言った。教えたいことは、ほかにもあった。半年に一度は巻いてやること。落とさないこと。水に気をつけること。けれど、言わなかった。この人は、たぶん、時計のほうから覚えていく。自分がそうだったように。
戸の鈴が鳴って、女は帰っていった。表の白い光の中に、影が溶けていく。
*
店に、また静けさが戻った。
壁の柱時計が、めいめいの速さで刻んでいる。振り子の音。ぜんまいの音。宮本は椅子に座り、目を閉じた。
耳の中で、時計たちが鳴っている。この音を、あと何年、聞けるだろう。そして、自分がいなくなったあと、この音のちがいを聞き分ける耳は、どこかに残るのだろうか。あの箱は、どこが悪いかを言う。けれど、直ったかどうかを聞く耳を、箱は持たない。
宮本は、わきに寄せた箱に、手を伸ばしかけて、やめた。
代わりに、もう少しだけ、目を閉じていた。四つの時計が、四つの間で時を刻む。そのどれもが、いまは、迷っていなかった。