AI活用の教科書

出汁

物語2026年7月15日5 分で読了執筆: 翔平

上京して初めての夏。ひとりの台所で、味噌汁の出汁がうまく取れない。

読み物親子

 鍋の湯が、また煮立ってしまった。

 柚は火を止めて、しばらく湯気を見ていた。昆布を入れる前に沸かしすぎると、たしか良くないのだった。母がそう言っていた気がする。けれど、なぜ良くないのかは覚えていない。覚えるほど、台所に立っていなかった。

 六畳のワンルームに、クーラーの低い音がこもっている。窓の外は、まだ生ぬるい。上京して四か月、初めての夏だった。

 スマホを台所の棚に立てかけて、画面をのぞく。だしの取り方、と打つと、手順がいくつも並んだ。昆布は水から。沸騰する前に取り出す。鰹節を入れて、火を止めて、こす。読めば、そのとおりだった。そのとおりのはずだった。

 実家の味噌汁は、朝の匂いだった。

 柚が起きるより先に、台所で小さな音がしていた。まな板の音、鍋の蓋の音。目をこすって居間に出ると、味噌汁はもう出来ていた。作るところを、ちゃんと見たことがなかった。いつも、出来上がっていた。

 だから、味は知っている。手順は、知らない。

 冷蔵庫には、スーパーで買った鰹節のパックと、細く切られた昆布。母のように、勘で入れることができない。画面の手順は、何グラムと書いてある。柚の台所には、量りがない。

 一度目は、薄かった。

 お湯に色がついただけの、頼りない味だった。味噌を足しても、芯のところが物足りない。二度目は、昆布を入れたまま煮立たせてしまって、少しぬめった。三度目、鰹節を入れる間が分からず、菜箸を持ったまま鍋の前で止まった。

 画面には、正しいことが書いてある。書いてあるのに、手が迷う。

 柚は火を止めた。ワンルームに、鰹の匂いだけが半端に漂っている。母なら、こんなに迷わない。目分量で、朝の匂いを作ってしまう。

 棚のスマホを、手に取った。手順の画面を閉じて、そのまま、電話の履歴を開いた。

「もしもし」

 二回で、母が出た。少し慌てた声だった。夜の九時を回っている。

「どうしたの、こんな時間に」

「べつに。……味噌汁作ってて」

 言ってから、なんで電話したんだろう、と柚は思った。調べれば分かることだった。分かることを、聞こうとしている。

「出汁、うまく取れなくて」

 電話の向こうで、母が少し笑った。それから、鍋の大きさを聞いた。柚が答えると、じゃあ昆布はこのくらいね、と手のひらの幅で言った。何グラム、ではなかった。

「沸く手前で、ぷつぷつって小さい泡が来たら、昆布は上げるの」

「ぷつぷつ」

「そう。ぐらぐらの前。急がなくていいから」

 柚は火をつけ直した。片手にスマホ、片手に菜箸。鍋の底を見ていると、やがて小さな泡が、ふちのほうから立ってきた。

「来た。来たと思う」

「上げて上げて」

 昆布をつまみ上げる。母は電話の向こうで、まだ何か言っている。テレビの音が、うっすら混じっていた。父が笑う声が、遠くでした。柚のいない食卓の音だった。

 鰹節を入れて、火を止める。

「そのまま、ちょっと待つの。沈むまで」

「どのくらい」

「数えなくていいの。沈んだら分かるから」

 柚は鍋を見た。茶色い削り節が、湯の中でゆっくり回って、少しずつ底へ落ちていく。落ちきるまでの、短いあいだ。急がなくていい、と母は言った。数えなくていい、とも。

「お母さん、これ、いつも量ってないでしょ」

「量らないわよ。手が覚えてるもの」

 その手を、柚は思い出そうとした。朝の台所で動いていた背中を。ちゃんと見ておけばよかった、とは言わなかった。言うと、なんだか泣きそうだった。

 削り節が、底に沈んだ。

「沈んだ」

「じゃあ、こして。味噌はそのあとね」

 こした出汁を、ひとくち飲んだ。

 朝の匂いがした。実家のとは、たぶん少し違う。けれど、遠くないところにいる味だった。芯のところに、ちゃんと何かがある。

「できた」

「できたでしょ」

 母の声は、少し得意そうだった。それから、無理しないの、ちゃんと食べるのよ、といつものことを言った。柚はうん、と答えた。電話は、思ったより長くなっていた。切ったあと、部屋は急に静かになった。

 味噌を溶いて、火を止める。ひとり分の味噌汁が、小さな鍋に出来ていた。

 窓を少し開けると、夜の風が入ってきた。まだ、生ぬるい。柚は椀を両手で持って、湯気の向こうの暗い窓を見た。

 次はもう、電話しなくても作れるだろうか。作れる気もするし、また声が聞きたくて、かけてしまう気もした。

 削り節の沈む時間を、今度は少しだけ、長く待とうと思った。

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