鍋の湯が、また煮立ってしまった。
柚は火を止めて、しばらく湯気を見ていた。昆布を入れる前に沸かしすぎると、たしか良くないのだった。母がそう言っていた気がする。けれど、なぜ良くないのかは覚えていない。覚えるほど、台所に立っていなかった。
六畳のワンルームに、クーラーの低い音がこもっている。窓の外は、まだ生ぬるい。上京して四か月、初めての夏だった。
スマホを台所の棚に立てかけて、画面をのぞく。だしの取り方、と打つと、手順がいくつも並んだ。昆布は水から。沸騰する前に取り出す。鰹節を入れて、火を止めて、こす。読めば、そのとおりだった。そのとおりのはずだった。
*
実家の味噌汁は、朝の匂いだった。
柚が起きるより先に、台所で小さな音がしていた。まな板の音、鍋の蓋の音。目をこすって居間に出ると、味噌汁はもう出来ていた。作るところを、ちゃんと見たことがなかった。いつも、出来上がっていた。
だから、味は知っている。手順は、知らない。
冷蔵庫には、スーパーで買った鰹節のパックと、細く切られた昆布。母のように、勘で入れることができない。画面の手順は、何グラムと書いてある。柚の台所には、量りがない。
*
一度目は、薄かった。
お湯に色がついただけの、頼りない味だった。味噌を足しても、芯のところが物足りない。二度目は、昆布を入れたまま煮立たせてしまって、少しぬめった。三度目、鰹節を入れる間が分からず、菜箸を持ったまま鍋の前で止まった。
画面には、正しいことが書いてある。書いてあるのに、手が迷う。
柚は火を止めた。ワンルームに、鰹の匂いだけが半端に漂っている。母なら、こんなに迷わない。目分量で、朝の匂いを作ってしまう。
棚のスマホを、手に取った。手順の画面を閉じて、そのまま、電話の履歴を開いた。
*
「もしもし」
二回で、母が出た。少し慌てた声だった。夜の九時を回っている。
「どうしたの、こんな時間に」
「べつに。……味噌汁作ってて」
言ってから、なんで電話したんだろう、と柚は思った。調べれば分かることだった。分かることを、聞こうとしている。
「出汁、うまく取れなくて」
電話の向こうで、母が少し笑った。それから、鍋の大きさを聞いた。柚が答えると、じゃあ昆布はこのくらいね、と手のひらの幅で言った。何グラム、ではなかった。
「沸く手前で、ぷつぷつって小さい泡が来たら、昆布は上げるの」
「ぷつぷつ」
「そう。ぐらぐらの前。急がなくていいから」
柚は火をつけ直した。片手にスマホ、片手に菜箸。鍋の底を見ていると、やがて小さな泡が、ふちのほうから立ってきた。
「来た。来たと思う」
「上げて上げて」
昆布をつまみ上げる。母は電話の向こうで、まだ何か言っている。テレビの音が、うっすら混じっていた。父が笑う声が、遠くでした。柚のいない食卓の音だった。
*
鰹節を入れて、火を止める。
「そのまま、ちょっと待つの。沈むまで」
「どのくらい」
「数えなくていいの。沈んだら分かるから」
柚は鍋を見た。茶色い削り節が、湯の中でゆっくり回って、少しずつ底へ落ちていく。落ちきるまでの、短いあいだ。急がなくていい、と母は言った。数えなくていい、とも。
「お母さん、これ、いつも量ってないでしょ」
「量らないわよ。手が覚えてるもの」
その手を、柚は思い出そうとした。朝の台所で動いていた背中を。ちゃんと見ておけばよかった、とは言わなかった。言うと、なんだか泣きそうだった。
削り節が、底に沈んだ。
「沈んだ」
「じゃあ、こして。味噌はそのあとね」
*
こした出汁を、ひとくち飲んだ。
朝の匂いがした。実家のとは、たぶん少し違う。けれど、遠くないところにいる味だった。芯のところに、ちゃんと何かがある。
「できた」
「できたでしょ」
母の声は、少し得意そうだった。それから、無理しないの、ちゃんと食べるのよ、といつものことを言った。柚はうん、と答えた。電話は、思ったより長くなっていた。切ったあと、部屋は急に静かになった。
味噌を溶いて、火を止める。ひとり分の味噌汁が、小さな鍋に出来ていた。
窓を少し開けると、夜の風が入ってきた。まだ、生ぬるい。柚は椀を両手で持って、湯気の向こうの暗い窓を見た。
次はもう、電話しなくても作れるだろうか。作れる気もするし、また声が聞きたくて、かけてしまう気もした。
削り節の沈む時間を、今度は少しだけ、長く待とうと思った。