午後の光がホールの緞帳を橙に染めていた。佐和子は舞台袖のパイプ椅子で、膝の上の両手をひらいたり閉じたりしていた。指の腹がしめっている。何度こすっても、乾かない。
プログラムの十二番。四十二歳、ピアノ歴一年二か月。前に並ぶのは小学生ばかりで、その合間に大人が二人、また子どもが続く。刷られた名簿の中で、自分の名だけが妙に大きく見えた。
舞台では今、九番の子が弾いている。転ばない。急がない。正確な粒が天井まで届いて、そこで静かに消える。母親らしい人が最前列で、膝の上のスマホをそっと構えていた。
あの子は家で、画面の向こうの伴奏と合わせてきたのだと、さっき廊下で親同士が話していた。速さを指定すれば、朝まででも一定のまま鳴ってくれるのだと。間違えない相手と、毎日。
佐和子の曲は、二分に満たない小品だった。アプリに弾かせれば、一度もつまずかずに終わる。指定した速さのまま、粒をそろえて。それでも彼女は、七小節目で毎回つまずく自分の手で、今日ここに座っている。
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半年前、楽器店の隅で埃をかぶった中古のアップライトを見た日のことを、まだよく覚えている。子どものころ、月謝が続かずにやめたピアノ。鍵盤に触れると、思っていたより重かった。指が沈む。その重さが、なぜか懐かしかった。
仕事の帰りに寄る三十分。譜面はなかなか進まなかった。同じ小節を、指がほどけるまで何十回もなぞる。若い先生は「回り道でいいんですよ」と言った。「間違えたところは、間違えたぶんだけ、手が覚えますから」。
家の練習では、古いメトロノームを使った。電池ではなく、ぜんまいで動く、机の上の三角形。振り子を左に倒すと、かちり、かちり、と拍を刻む。画面の中の均一なガイドより、その少しだけ不揃いな音のほうが、彼女には合った。
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名を呼ばれた。
立ち上がると、膝が笑った。舞台の中央は、思っていたより遠い。一歩ごとに、心臓の拍が速くなる。椅子の高さを直す手が、少し震えた。客席は暗くてよく見えない。ただ、前のほうに、小さな影がひとつ、背筋を伸ばして座っているのが分かった。
鍵盤に指をのせる。重い。この重さだ。
弾き始めた。最初の四小節は、練習どおりに流れた。五、六と越えて──七小節目。
指が、止まった。
次の音が、出てこない。頭の中の楽譜が、そこだけ白く飛んでいる。一拍、休符のような沈黙が落ちた。客席のどこかで、椅子のきしむ音。喉の奥が熱くなる。
佐和子は息を吸った。数えた。かちり、と、頭の中で振り子が倒れる。もう一度、その小節の頭から指を置いた。今度は、越えた。粒はそろっていない。走ったところも、もたついたところもある。それでも最後の和音まで、彼女の手が運んでいった。
鳴り終えた音が、ホールの天井へのぼって、消えた。
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袖に戻ると、いつのまに来ていたのか、息子が立っていた。八歳の手が、彼女のスカートの裾をつかむ。
「ママ、ななつめのとこで、とまったね」
「……うん」
佐和子は笑った。うまく笑えたかは分からない。
「でもぼく、ママのがすき。アプリのより」
なぜ、と聞くと、子どもは少し考えた。理由を探す顔で、天井を見て、それから言った。
「だって、とまったから」
佐和子は、その言葉をうまく受け取れなかった。ただ、裾をつかむ手のあたたかさだけが、はっきりと分かった。
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その夜、息子が寝てから、彼女は机の上のメトロノームを引き寄せた。振り子を指ではじく。左へ、右へ。かちり、かちり。揺れの幅が、少しずつ狭くなっていく。止まる前の、いちばん静かなひと揺れ。それを、しばらく見ていた。
明日も、あの七小節目でつまずくのだろう。たぶん。指が覚えるまで、あと何十回。
彼女はもう一度、振り子を倒した。