九月に入っても、夜の教室はまだ蒸していた。窓の外で虫が鳴いている。亮は机に肘をつき、指の腹に残った機械油の匂いを嗅いだ。昼のあいだ町工場で握っていたスパナの形が、まだ手のどこかに残っている気がした。
前の席の女子生徒は電子黒板の板書を、そのまま自分の端末へ送っていた。指先ひとつで、今日の授業がまるごと保存されていく。採点も、要点のまとめも、画面の向こうが勝手にやってくれる時代だった。ノートを取る必要すら、本当はない。
それなのに、桑田は白墨を使った。
黒板の右端に立てかけられた電子パネルには目もくれず、桑田は箱から一本のチョークをつまみ上げる。かつん、と乾いた音がして、白い線が黒い板の上を走った。粉が、ゆっくりと落ちていく。
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時代遅れだ、と亮は思っていた。
粉が舞う。桑田の紺色の袖口は、いつも白くかすれている。板書は遅い。画面に映せば一瞬で済むものを、桑田はわざわざ手で書き、書いては手のひらで半分消し、また書き直す。そのたびに、みんなの端末が待たされる。
亮はその夜、途中で分からなくなっていた。二次方程式の、平方完成というやつだ。どこかの一行で、糸がぷつりと切れた。切れたきり、あとは黒板の白い線が、ただの模様に見えていた。
桑田がふいに、書いたばかりの式を手のひらで消した。乱暴にではなく、たなごころで撫でるように。消えきらない白が、うっすら板に残る。その上から、桑田はもう一度、同じ行を書きはじめた。
「ここでね、半分に割るんだ」
ゆっくりだった。手が遅いぶん、亮の目は、線が生まれるところをひとつずつ追えた。消えかけた前の式と、いま書かれていく式が、うっすら重なって見える。あ、と亮は思った。切れた糸の場所が、そこにあった。さっき自分が飛ばした一行だった。
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授業のあと、亮は黒板消しを持ったまま、教壇の前に残っていた。日直だった。
「先生、なんでチョークなんですか」
桑田は手を止めた。指の関節が、粉で白い。
「画面のほうが、消しても粉つかないし。楽じゃないですか」
悪気はなかった。ただ、訊いてみたかった。桑田はチョークを箱に戻し、それから、消したばかりの黒板を見た。
「消したところがね、うっすら残るだろう」
亮は黒板を見た。何度も書いては消した跡が、白くにじんで層になっている。
「あれが、いいんだ。前に書いたことの上に、いま書く。消しても、下に残ってる。手が覚えてる」
桑田は自分の指を見た。
「わたしも、若い頃は工場にいてね。旋盤を回してた。学び直したのは、あんたくらいの歳を、とうに過ぎてからだ」
粉のついた指で、桑田は軽く笑った。遅れて来た、という言葉を、桑田は恥じるふうもなく置いた。亮は、機械油の匂いのする自分の手を、そっと握り込んだ。
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学期の終わりに、桑田がこの学校を離れることを、亮はあとから知った。非常勤の、期限のようなものらしかった。誰も大げさには言わなかった。桑田も、いつもと同じように白墨を握り、いつもと同じ速さで板書を続けた。
最後の授業の日、桑田は黒板いっぱいに式を書いた。書いては手で消し、また書いた。粉が、これまででいちばん多く落ちた気がした。終業のあいさつのあと、桑田は荷物をまとめ、白いままの指で鞄の持ち手を握った。
「じゃあ、達者で」
それだけだった。教室を出ていく背中は、少し丸かった。
亮は、みんながいなくなった教室に残った。黒板には、まだ消し残しの白が、層になってにじんでいる。亮はチョークの箱から、一本つまみ上げた。かつん、と乾いた音がした。
黒板の右下の隅に、亮は小さく、あの一行を書いた。自分が一度は切らした、平方完成のその行を。誰に見せるためでもなかった。書き終えて、指の腹を見ると、白い粉がついていた。機械油の匂いの上に、乾いた白がのっている。
亮は、黒板消しを持ち上げかけて、やめた。消さずに置いた。うっすらでいい。次に誰かがこの黒板に何かを書くとき、その下に、今日の白が残っているように。
窓の外で、虫がまだ鳴いていた。亮は指の粉を、机の上で軽く払った。それから、払いきれなかった白を、しばらくそのままにしておいた。