夜が明けきる前のグラウンドは、まだ湿っていた。圭は物置の鍵を開け、ライン引きを引き出す。車輪が土に半分めり込んで、重い。石灰の袋を肩から下ろし、タンクに移す。白い粉が朝の光に舞って、指の関節が白くなった。
三年間、この作業だけは誰にも負けなかった。
バッターボックスの角に片膝をつく。目印の釘に糸を張り、糸に沿ってライン引きを転がしていく。しゃっ、しゃっ、と車輪が鳴る。振り返らない。振り返ると、線は必ず曲がる。ずっと先の一点だけを見て、そこへ向かって歩く。引き終えて戻ると、白い線が朝の土の上にまっすぐ伸びていた。糸を張らなくても、もう手が覚えている。
*
部員が集まりだす頃、タブレットを持った下級生が駆けてきた。画面には今日の打順と守備位置が並んでいる。前の晩に、部のデータをぜんぶ読み込んだ画面の向こうが弾き出したものだ。相手校の投手の癖、味方一人ひとりの調子、風の向き。数字が最もよく転がる並びを、迷いなく示してくる。
監督はそれを一瞥して、いくつか指であらためた。ほとんどは、そのまま通した。
圭の名前は、どこにもなかった。あってはならない場所にすら、なかった。この三年間、公式戦で彼の名が呼ばれたことは一度もない。数字は正直で、彼を出す理由をどうしても見つけられなかったのだと思う。恨む気は起きなかった。自分でも、その数字は知っていた。
整列のあいだ、圭は自分の引いた線を横目で見ていた。一塁線の白が、朝日を受けて少しだけまぶしい。
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試合が始まる。
ベンチのいちばん端が、彼の場所だった。誰かがヒットを打てば立ち上がって手を叩き、三振に倒れれば水を運ぶ。声を出す。誰よりも早く、誰よりも長く声を出す。それが自分の仕事だと、いつの間にか決めていた。
二回の裏、味方の打球が一塁線ぎりぎりに転がった。塁審が両手を広げる。フェア。ボールは白い線の内側で、うっすらと石灰の粉を跳ね上げていた。
圭は思わず腰を浮かせた。あの線を引いたのは自分だ。あと一センチ外側に引いていたら、あの打球はファウルになっていたかもしれない。誰も、そんなことは考えない。画面の向こうも、たぶん考えない。線が正しくそこにあることは、あまりに当たり前で、誰の手柄にもならなかった。
それでいい、と圭は思った。当たり前にそこにある、というのは、悪くない。
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試合は競り合ったまま、終盤に入った。
ベンチの空気が薄くなる。誰も口をきかない。監督がタブレットを見て、代打を告げた。名前が呼ばれ、下級生が一人、バットを握って立ち上がる。まだ二年の、線の細い子だ。膝が小刻みに揺れているのが、後ろからでもわかった。
圭はその背中に、水の入ったボトルを差し出した。
「まっすぐ振ってこい」
自分でも、なぜその言葉が出たのかわからなかった。うまいことを言ったつもりもない。ただ、まっすぐ、という言葉が、いちばん手になじんでいた。
下級生は一度だけうなずいて、打席へ歩いていった。彼が踏んだ白線は、朝、圭が引いたものだった。
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打球がどうなったか。
それは、この話には要らないのかもしれない。
試合が終わって、部員たちがグラウンドに礼をした。土に頭を下げる列の中で、圭も同じように腰を折った。三年間声を出し続けた喉が、最後まで枯れなかったのが、少しおかしかった。
みんなが引き上げたあと、圭は一人で残った。ライン引きを物置から、もう一度引き出す。試合で乱れた線が、あちこちで途切れている。誰も頼んでいない。明日にはトンボで消される線だ。
それでも彼は、片膝をついて釘に糸を張った。
しゃっ、しゃっ。車輪が鳴る。ずっと先の一点を見て、そこへ向かって歩く。振り返らない。振り返ると、線は曲がる。夕方の光の中で、白がまた、まっすぐに伸びていった。
この線を、来年も誰かが引くのだろうか。糸を張らずに、手だけで、まっすぐに。
圭にはわからなかった。わからないまま、彼は最後の一本を、ていねいに引き終えた。土の上に、白い線が静かに残った。