八月の終わりの屋上は、まだ夏の匂いがした。日に焼けたコンクリートと、どこかで焦げた草の匂い。その底に、甘くて青いものが混ざっている。
芽衣はその匂いのもとを知らなかった。祖父が木箱の蓋を少しずらすと、匂いは急に濃くなった。
「近づいても、平気なの」
「手を早く動かさなければな」
祖父は白い網もかぶらず、素手だった。指の甲に、ちいさな影がいくつも走る。芽衣は半歩下がった。手首の帯が、静かに震えて熱を伝えてきた。周囲に蜂の反応あり、と細い文字が浮かぶ。数が、赤い点になって散らばっていた。
「危ないって、出てる」
「そうか」
祖父は点を見なかった。蓋の隙間に顔を寄せ、目を細めた。
*
芽衣がここへ来たのは、母に頼まれたからだった。ひとり暮らしの祖父の様子を、盆のあとに一度見てきてほしい。ただそれだけのはずが、着いた朝に「ちょうどいい、しぼるのを手伝え」と言われた。
木箱は全部で三つ。祖父はそのうちの一つの前に、長いこと座っていた。羽音が、低いところで固まっている。芽衣の帯は、三つとも「正常」と表示していた。緑の丸が三つ、行儀よく並んでいる。
「この箱、元気ないの」
「うん」
「でも、正常って出てるよ」
祖父は答えず、板を一枚、そっと持ち上げた。六角形の部屋がびっしり詰まった板だ。光にかざすと、蜜のあるところだけ、色が濃く沈んで見えた。
「重さでわかる」
板を芽衣に渡す。思ったよりずっと重かった。腕がわずかに落ちる。
「こっちは、軽い」
もう一枚。たしかに、軽い。芽衣は二枚を持ちくらべた。帯には、なんの表示も出なかった。重さを量る機能は、はじめから付いていない。
*
蜜をしぼる道具は、古い手回しの遠心分離機だった。銀色の胴に、把手が一本ついている。
「回すと、飛ぶ。壁にぶつかって、落ちてくる」
祖父の手が把手を回すと、中でかすかな音が変わった。遅く、速く。芽衣は横で、ただ見ていた。透明な管の先から、琥珀色のものが糸を引いて落ちはじめる。落ちて、たまって、また落ちる。
匂いが、屋上いっぱいに広がった。朝に嗅いだ青さの、正体だった。
「なめてみろ」
指の先につけて、口に運んだ。想像していたより、味が複雑だった。甘さのあとに、花の名前を思い出せないような、ほろ苦いものが残る。
「今年のは、こういう味なの」
「毎年ちがう。何の花が咲いたかで」
芽衣は、しぼりたての蜜を、もう一度なめた。去年の味を知らないから、くらべようがない。それでも、この夏はこういう味だったのだと、体のどこかに置かれた気がした。
*
夕方、帯がまた震えた。元気のない箱の緑の丸が、点滅していた。要観察、と出ている。ようやく機械が、祖父が朝から気にしていたことに追いついたらしかった。
「やっと出た」
「機械もよう見とる」
祖父はそう言って笑った。責めるふうでも、勝ったふうでもなかった。
「わしは、音でわかっただけだ。半日、早かった」
芽衣は箱に耳を寄せてみた。羽音が、たしかに他の箱とちがう。低くて、ばらばらで、どこか心細い。言われなければ、ぜんぶ同じに聞こえたはずの音だった。
「これ、教えられるものなの」
祖父は少し考えた。
「聞いとれば、そのうち」
答えになっていない答えだった。芽衣は箱に耳をつけたまま、もう一度、目を閉じた。
*
帰りの電車で、鞄の中に蜜の瓶が一つあった。祖父が黙って持たせたものだ。ラベルはない。何月に、どの花から、とも書いていない。
窓の外を、灯りが流れていく。芽衣は瓶を膝にのせ、両手で持った。ガラス越しに、まだ温いような気がした。
耳の奥に、あの低い羽音が残っていた。緑の丸には出ていなかった音だ。半日先に、祖父の耳だけが拾っていた音。いつか自分にも聞こえる日が来るのか、芽衣にはわからない。
わからないまま、瓶を少し傾けてみた。琥珀色が、ゆっくりと壁を伝って動いた。落ちるまでに、思ったより時間がかかった。