シャッターを半分だけ上げた店の奥から、低い音楽が漏れていた。夕方の商店街はもう影が長い。金木犀のにおいが、風のたびに濃くなったり薄くなったりする。
凪はその音の前で足を止めた。
毎日この道を通っていた。塾へ行く近道で、シャッターの下りた店ばかりが並ぶ通りだ。この店だけは、いつも半分だけ開いている。中は見たことがなかった。
流れてくる音は、耳につけているものとは違った。輪郭がやわらかい。少しざらついていて、そのざらつきが、音を近くに感じさせた。
*
のれんの代わりに、色の褪せた布が垂れていた。くぐると、壁一面に四角い板が並んでいた。厚みのある紙のジャケットに、知らない人の顔や、意味の分からない絵が刷られている。
奥のカウンターに、白髪の男がいた。丸い眼鏡越しに、凪をちらと見て、また手元に目を戻す。指先で、黒い円盤の縁をつまんでいた。
「聴いていくかい」
凪は返事に迷った。買うつもりはない。でも、あの音がどこから出ているのか、知りたかった。
男は返事を待たずに、円盤を箱から抜いた。息を吹きかけ、袖で軽くぬぐう。それを平たい台に載せ、細い腕を、そっと縁のほうへ下ろした。
――ぱち。
小さな音がした。砂を踏んだような、頼りない音。凪は、壊れたのかと思った。
「今の、雑音ですか」
悪気なく口から出た。男は、笑いも困りもしなかった。
「針が、溝に降りた音」
それだけ言って、顎で台のほうを示した。
*
凪は近づいて、覗き込んだ。回る円盤の上を、銀色の細い針がなぞっている。目を凝らすと、円盤には、渦を巻くみぞが、内側へ内側へと刻まれていた。
「この溝を、針がたどってる。溝のかたちが、そのまんま音になる」
男の声は、押しつけがましくなかった。教えるというより、独り言に近い。
凪は、自分の指を思い出した。宿題の英作文を、画面に一行放り込めば、続きが勝手に整っていく。曲だって、気分を打ち込めば、一秒もかからずに流れてくる。間違えることも、途中でつっかえることもない。きれいで、なめらかで、はやい。
目の前の針は、はやくなかった。
ゆっくりと、溝の上をたどっていく。ときどき、ぱち、と鳴る。その音は、消してほしい邪魔ものではなくて、なぜか、音楽と一緒に鳴っていていいもののように聞こえた。
「傷が、あるんですか」
「あるよ。何十年も回してきたからね」
男は、少しだけ間をおいた。
「その傷ごと、鳴る」
*
曲が、盛り上がっていくところだった。声が伸びて、後ろの楽器が厚く重なる。凪は、いつのまにか息を止めていた。
ここで飛ばしたい、と思う場面はなかった。次の曲へ、次の動画へ、と指が動くこともなかった。ただ、針が溝の終わりへ近づいていくのを、惜しむような気持ちで見ていた。
最後のひとまわりで、音がふっと細くなった。針は、いちばん内側の溝を、名残惜しそうに何周かして、それから、そっと持ち上がった。
店の中に、金木犀のにおいだけが残った。
「……もういっかい、聴けますか」
凪が言うと、男は円盤を裏返した。また、ぱち、と鳴った。今度は、その音を待っていた。
*
外はもう、暗くなりかけていた。塾には遅れる。それでもよかった。
男は、凪が来たとき手にしていた円盤を、箱に戻さずにいた。
「これ、そんなに高くないよ」
値段のことを言ったのではない、と凪には分かった。持っていってみるかい、と、それだけの意味だった。
凪は首を横に振った。うちに、これを回す台はない。
男はうなずいて、円盤をゆっくり袋に戻した。惜しみもせず、押しつけもしなかった。
「また、通りかかったら」
凪は、うん、とは言えなかった。代わりに、少しだけ頭を下げて、布をくぐった。
商店街には、また金木犀が流れていた。塾へ急ぐ足が、今日はうまく速くならない。耳の奥で、まだ、ぱち、と鳴っている。あの、砂を踏むような音。
いつか、あの溝を自分の指でたどってみたい、と思った。たどれるだろうか。
振り返ると、店の明かりが、半分だけ開いたシャッターの下から、通りに細くこぼれていた。