朝の六時に目が覚めるのは、もう癖になっていた。誰も起こさなくていいのに、体のほうが忘れずにいる。
台所に立って、電気ケトルのスイッチを入れる。水の沸く音を聞きながら、恵子はマグカップを一つだけ棚から出した。二つ出しかけて、手を止める。もう半年になるのに、指がまだ覚えている。
美咲が家を出たのは、桜の散るころだった。大学は電車で二時間の距離にあって、通えなくもない、と最初は言っていた。それが、いつのまにか、部屋を借りることになっていた。段ボールが玄関に積まれた朝、恵子は何も言わなかった。行ってらっしゃい、とだけ言った。いつもの声で言えたと思う。
*
困ったのは、家の中のこまごました機械だった。
テレビの録画も、洗濯機の変な表示も、玄関の鍵の電池も、これまで全部、美咲がやっていた。母さん、それ貸して、と手を出して、数十秒でなおしてしまう。恵子はその横で、ふうん、と見ているだけだった。覚えようとは思わなかった。そばに、直せる人がいたから。
その人が、いなくなった。
エアコンのリモコンが効かなくなった夜、恵子はしばらく、ボタンを押しては天井を見上げていた。電話をかけようとして、やめた。こんなことで呼び出すのは、と思った。向こうにも向こうの暮らしがある。
かわりに、恵子は美咲が置いていったやり方を思い出した。ほら、これに聞けばいいから。そう言って、娘は母の携帯の画面を指でつついてみせた。分からないこと、声で聞けるでしょ。
恵子は画面に向かって、小さな声で言った。エアコンの、リモコンが、効かなくなったんですけど。
言ってから、少し笑いそうになった。誰もいない部屋で、機械にていねいな言葉を使っている自分がおかしかった。
画面の向こうは、落ち着いた声で答えた。電池を入れ替えてみてください。それでもだめなら、こういう場所を確かめてみて、と順に教えてくれた。恵子は言われたとおりに、裏ぶたを開けた。単四が二本。買い置きがあった。
ついた。冷たい風が、ゆっくりと下りてきた。
恵子はリモコンを手に持ったまま、しばらく座っていた。なおった。それはうれしかった。うれしかったのに、なぜか、胸のあたりが少し痛んだ。母さん、それ貸して、という声が、もう台所からは聞こえないことを、風の音が教えてくる気がした。
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夏が来て、庭の隅のことに気づいたのは、七月のはじめだった。
プランターに、背の高い草が伸びていた。恵子は雑草だと思って、抜こうとした。太い茎に手をかけて、それから、思い出した。
これ、育ててみるね。春先、美咲がそう言って、小さな鉢に何かの種を埋めていた。何の種、と聞いたら、内緒、と笑った。引っ越しの荷造りに紛れて、恵子はそのことをすっかり忘れていた。
草は、恵子の腰よりも高くなっていた。てっぺんに、固いつぼみがついている。まだ緑の、握りこぶしのようなつぼみだった。
向日葵だ、と分かった。
恵子は毎朝、ケトルの水を沸かす前に、庭に出るようになった。つぼみは日に日にふくらんだ。水をやりながら、恵子は独り言のように話しかけた。大きくなったねえ。あの子が埋めたんだよ、これ。返事はないけれど、それでよかった。
あるとき、水やりのついでに、また画面に聞いてみた。向日葵って、どのくらいで咲きますか。声で聞くのは、もうあまり恥ずかしくなかった。画面は、つぼみができてから咲くまでの日数の目安を、いくつか教えてくれた。天気や気温で変わることもあります、と最後に付け足した。言い切らないところが、恵子には少し好ましかった。
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電話が鳴ったのは、梅雨の明けた晩だった。
美咲だった。元気にしてる、といつもの調子で聞いてくる。してるよ、と恵子は答える。それで話は終わるはずだった。けれど、その日は違った。恵子は、ためらいながら言った。あんたが埋めた種、向日葵だったんだね。
電話の向こうが、少し黙った。それから、あ、忘れてた、と笑った。咲きそう、と美咲が聞く。もうすぐ、と恵子は言った。写真、送ってよ、と娘が言う。撮り方、分かんないよ、と恵子が言うと、電話の向こうで、また笑い声がした。教えるから、と美咲は言った。今度は、電話越しに。
恵子は、それでいいと思った。すぐに直せる手は、もうそばにない。けれど、教わりながら、自分の指でやってみるのも、悪くない。少し時間はかかるだろう。かかっていい。
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向日葵が咲いたのは、朝だった。
いつものように六時に目が覚めて、庭に出た恵子は、立ち止まった。ゆうべまでつぼみだった花が、開いていた。まだ低い日の光のほうへ、まっすぐに顔を向けている。黄色が、朝のうすい空にくっきりと浮かんでいた。
恵子は携帯を取り出して、覚えたばかりのやり方で、その花を写した。うまく撮れているかは分からない。少し斜めかもしれない。それでも送った。
しばらくして、返事が来た。短い言葉と、絵がひとつ。恵子はそれを、何度か読み返した。
花は、恵子のいるほうを見てはいなかった。ただ、東の空のほうを向いていた。置いていかれたのではない、と恵子は思った。この子も、行きたいほうへ、顔を上げているだけだ。
水をやろうとして、恵子は手を止めた。今朝はいい。ぬれた土のにおいの中で、花はもう、次の光を待っていた。