その報告書は、もう二人で作らなくてよくなった。
毎月、月末の二晩。遠藤と志田は残って、各課から上がってくる数字を突き合わせ、体裁を整え、翌朝までに出していた。今年の春に仕組みが変わった。夜のうちにシステムが下書きを組み、朝には整った形で置かれている。誰の手も要らない。
それでも遠藤は、その晩、会社に残っていた。習慣というものは、用がなくなってもしばらく体に残る。定時をだいぶ過ぎて、フロアの照明はもう半分落ちている。人のいない机の上で、モニターだけが青白く点いたり消えたりしていた。
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志田が戻ってきたのは、遠藤がそろそろ帰ろうかと鞄を引き寄せたときだった。
「傘、忘れてた」
それだけ言って、志田は自分の席の脇から折り畳み傘を抜き取った。外はさっきまで降っていた。遠藤は「ああ」とだけ返した。二人が言葉を交わすのは、ずいぶん久しぶりだった。
ひと月前、些細なことで言い合いになった。どちらの言い分が正しかったのか、いまとなってははっきりしない。ただ、あの日から二人は必要なこと以外を話さなくなった。同じ島の、斜め向かいの席で。
志田は傘を手にしたまま、すぐには出ていかなかった。柱のほうを見ている。遠藤もつられて目をやった。
そこに、日めくりがかかっていた。
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去年定年で辞めた先輩が、置いていったものだった。文具店で売っている、いちばん安い日めくり。数字が大きいだけの、味も素っ気もないやつ。先輩は毎朝出社すると、まずそれを一枚めくった。「こうすると、今日が始まる気がするんだ」と言っていた。
先輩がいなくなってからは、志田が代わりにめくっていた。誰に頼まれたわけでもない。ただ、朝いちばんに来る志田が、通りがかりに一枚。それがいつのまにか決まりのようになっていた。
その日めくりが、ひと月前の日付で止まっている。
厚みだけが増していた。めくられなかった日が、そのまま束になって残っている。志田が朝いちばんに来なくなったのか、来てもめくらなくなったのか。遠藤には分からない。分かるのは、止まった日付が、あの言い合いのあった日の翌日だということだった。
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志田が傘を机に置いた。柱に近づいて、日めくりの角に指をかける。
一枚、めくれた。乾いた紙の音がした。
次の日付が出る。志田はそれも、めくった。もう一枚。窓の外で、雨のあとの車が水を切って通り過ぎる。志田の指は止まらなかった。一日、また一日。過ぎてしまった日が、志田の手のなかで薄い山になっていく。
遠藤は立ち上がっていた。いつのまにか、志田の隣に立っていた。
「手伝う」
言ってから、妙な申し出だと思った。カレンダーをめくるのに、二人も要らない。志田は少し笑ったようだった。声は出さずに。それでも、束の下のほうを遠藤に渡した。指がぶ厚くて、一人ではめくりにくい。遠藤が下から支え、志田が上からめくる。二人がかりで、たまった日をほどいていく。
紙の音だけが、暗いフロアに続いた。何日ぶんめくったのか、数えてはいなかった。ただ、指の下の束が、だんだん薄くなっていくのが分かった。
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最後の一枚をめくると、明日の日付が出た。
二人はしばらく、その大きな数字を見ていた。めくった紙の山が、柱の下に落ちている。ひと月ぶんの、過ぎた日。誰もめくらなかったから、そこにたまっていただけの日。
「明日、俺が来る」
志田が言った。誰が朝いちばんに来るか、という話ではないのは、遠藤にも分かった。
「じゃあ、明後日は俺が」
志田は今度は、声に出して笑った。短く。それから傘を取り、「お先に」と言って出ていった。
遠藤はひとり、落ちた紙を拾い集めた。捨てるつもりで手に取って、けれど、なんとなく捨てられなかった。机の抽斗の、いちばん奥に入れた。
柱の日めくりには、明日の日付が出ている。まだ誰もめくっていない、明日。遠藤は明かりを落として、フロアを出た。
傘は、持ってきていなかった。降り止んだかどうか、外に出てみないと分からない。