AI活用の教科書

補助線

物語2026年8月7日4 分で読了執筆: 翔平

残暑の夕方、宿題の図形につまずいた娘と、数学が得意ではなかった父。答えは、すぐそこの画面の中にある。

読み物近未来AIのある日常親子

 網戸のむこうで、蝉が鳴きやんではまた鳴いた。西日が台所のタイルを橙に染めて、莉子の消しゴムのかすを長い影にしていた。

 田村は麦茶を二つ、テーブルに置いた。氷がグラスの内側で小さく鳴る。娘は返事をしない。鉛筆の尻を噛んで、ノートの一点をにらんでいた。図形の問題だった。三角形の中に、もう一つ三角形が重なっている。

「わかんない」

 莉子が言った。中学に上がってから、この言葉の言い方が変わった。小さいころは泣きそうな声だったのに、今はどこか投げやりで、大人びていて、田村を少しさびしくさせる。

「どれ」

 のぞきこんでも、田村にはすぐには筋道が見えなかった。数学は、昔から得意ではなかった。定期試験のたびに、赤い数字を親に隠して回った。そのことは莉子に言っていない。

 莉子の手が、机の端のタブレットに伸びた。

 問題の写真を撮れば、答えはすぐに出る。式も、途中の説明も、きれいに並んで返ってくる。それがふつうだった。莉子の同級生はみんなそうしているし、それで宿題は終わる。終わってしまう。

 田村は、その手を止めなかった。ただ、自分の指が先にノートに触れていた。

「ちょっと待って」

 声が、思ったより静かに出た。莉子が顔を上げる。

 田村は、重なった三角形のあいだの、なにもない空白を見ていた。ずっと昔、赤い数字ばかりだった自分に、一人だけ、答えを言わない先生がいた。放課後の教室で、その人はチョークで一本だけ線を引いた。ここに、と言った。それだけだった。その一本が引かれた瞬間、田村の目の中で、ばらばらだった点と点が急につながった。あの感じを、田村はまだ手が覚えている。

「ここに、一本だけ、線をひいてごらん」

 鉛筆の先で、頂点から底辺へ、田村は空中をなぞった。触れずに、ただ場所だけを示した。

「これ、答え?」

「答えじゃない。線だけ」

 莉子が、けげんな顔をした。それから、しぶしぶ定規をあてて、うすい線を一本ひいた。

 しばらく、鉛筆は動かなかった。

 蝉が鳴いた。氷がまた鳴った。田村は、麦茶に口をつけて、待った。教えたくなる。ここがこうで、と言ってしまいたくなる。その一言を、田村はのみこんだ。のみこむのは、思っていたよりずっと難しかった。

 莉子の目が、線を引いたあたりで止まっている。そこから、分かれた小さな三角形をなぞる。もう一度なぞる。

 ——あ。

 声にならない声だった。口の形だけが、そう動いた。

 鉛筆が走りだした。さっきまで一文字も進まなかった手が、迷いなく数字を並べていく。莉子は田村を見なかった。問題だけを見ていた。それでよかった。田村が見ていたいのは、答えの丸ではなく、いま娘の目の中で点と点がつながった、その一瞬のほうだった。

「できた」

 莉子が鉛筆を置いた。得意そうな顔を隠すみたいに、麦茶を一気に飲んだ。ぬるくなっていたのか、少し顔をしかめた。

「その線、なんで思いついたの」

 莉子が聞いた。田村は、答えられなかった。思いついたわけではない。ただ、昔だれかに引いてもらった一本を、覚えていただけだった。

「さあ」

 と、田村は言った。

 西日が、もうテーブルの端まで退いていた。タブレットは、画面を暗くしたまま、机の隅で眠っている。

 莉子は次の問題に移っていた。今度は聞いてこない。鉛筆の音だけが、台所に続く。田村は洗い物に立った。蛇口をひねりながら、自分のひいた線のことを考えた。あれは答えではなかった。答えは、莉子が自分で見つけた。田村がしたのは、なにもない空白に、たった一本、目印を置いただけだ。

 いつか莉子も、だれかの空白に、線を一本ひく日がくるだろうか。

 水音の下で、鉛筆の音が、まだ続いていた。

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