十時を回ると、駅前のロータリーはひとけがなくなる。塾の看板だけが白く灯って、その下に息子が立っていた。リュックを片方の肩にかけて、スマホを見ている。迎えの車が寄っても、顔を上げない。
ドアが自分で開いた。息子が助手席に乗り込む。
「おつかれ」
「うん」
それだけだった。車は静かに走り出す。行き先はもう入れてある。信号を読み、対向車との距離をはかり、車は迷いなく右へ折れた。父はハンドルに手を置いていない。膝の上に両手を重ねて、流れていく街を見ている。
*
昔は、この時間の運転が好きだった。
昼間の道は気が張る。割り込み、急な飛び出し、子どもの自転車。けれど夜の帰り道はちがった。車が減って、信号のリズムが体になじんで、ハンドルを握る手のひらにちょうどいい重さがのる。あの重さを、いつのまにか手が忘れている。
車が曲がる。父の体がわずかに傾く。手は、どこにも力を入れていない。膝の上で、指がひとりでに何かを握るかたちになって、ほどける。
助手席の息子は、窓に頭をあずけていた。中学に上がったころから、背が伸びて、声が低くなって、返事が短くなった。何を考えているのか、もうよく分からない。分からないまま、毎晩この時間だけ、狭い箱に二人でいる。
「今日、遅かったな」
「模試の直しやってた」
「そうか」
会話は続かない。父は窓の外に目を戻す。手のやり場がない。ハンドルがあれば、握っていればよかった。前を見て、ただ運転していればよかった。それだけで、何も話さなくても不自然ではなかった。
*
赤信号で車が止まる。エンジンの音もしない。ただ、しんとしている。
「なあ」父が言った。「さっきの、模試」
「べつに。ふつう」
「数学は」
「まあ、ぼちぼち」
息子がちらりとこちらを見た。父が数学を苦手だったことを、たぶん覚えている。中学のとき、父の答案を見た母が笑っていたのを、この子は横で聞いていた。
「父さんに聞くだけむだか」
「聞いてないし」
言いながら、息子の口の端がすこし動いた。笑ったのかもしれない。信号が青になる。車がすべり出す。
窓の外を、コンビニの灯りが後ろへ流れていった。昔、この子が小さかったころ、あそこでよく肉まんを買った。助手席にはチャイルドシートがあって、その中で足をぶらぶらさせていた。手が届かないから、赤信号のたびに後ろへ手を伸ばして、小さな手のひらに触れた。あたたかかった。冬でも、そこだけ熱をもっていた。
いまはもう、手を伸ばす必要がない。息子はすぐ隣にいる。伸ばせば届く。届くのに、遠い。
*
「父さんさ」
不意に、息子のほうから声がした。窓に頭をあずけたまま、前を見ている。
「運転、しなくてよくなって、さびしくないの」
父はすぐに答えられなかった。膝の上の手を、意味もなく組みかえる。
「どうかな」
「なんか、手、落ち着かなそうだから」
見ていたのか、と思った。ずっとスマホを見ているものだと思っていた。この子は、父の手を見ていた。
「……そうだな。手が、あまってる」
言ってしまってから、少しばつが悪くなる。息子はふっと息で笑って、また黙った。車は住宅街に入り、速度をゆるめる。街灯の間隔が広くなって、車内が明るくなったり暗くなったりした。
*
家まで、あと少しだった。
息子はいつのまにか目を閉じていた。頭が窓から離れて、こくり、と前に落ちる。寝息が聞こえる。塾のあとの、疲れた寝息だった。小さいころ、チャイルドシートの中でこうして眠った。あのときも、こんなふうに頭が揺れて、父はよく手で支えた。
いま、その手が、また空いている。
父は、膝の上の手をそっと持ち上げた。眠る息子の肩のあたりで、少しためらう。触れれば起きるかもしれない。もう、支えてやる必要もないのかもしれない。
手を、肩には置かなかった。ただ、いつでも受けとめられる高さで、そこに添えておいた。車が最後の角を曲がる。体が傾く。息子の頭が、父の手のほうへ、ほんの少しかたむいた。
家の灯りが見えてくる。父は手を、そのままにしていた。