須磨子の家では、六月になると梅を漬ける。
庭の木からもいだ青梅が、ざるの上で湿った光を放っていた。今年は粒が大きい。指でへたを取りながら、須磨子はそう思った。竹串の先で、梅のくぼみに残ったへたを、ひとつずつ。母がそうしていたように。
台所に、慣れない足音が二つ増えていた。孫の拓海と、その妻。ランといった。春に籍を入れて、はじめてこの家に来た。
「ばあちゃん、なんか手伝うことある?」
拓海が冷蔵庫から麦茶を出しながら言う。須磨子は首を振った。手伝いなら足りている。足りていないのは、言葉のほうだった。何を話せばいいのか、朝から分からないでいた。
ランは、台所の入口に立っていた。両手を前で軽く重ねて、ざるの梅をじっと見ている。目が合うと、控えめに頭を下げた。日本語は、まだほとんど分からないらしい。須磨子も、向こうの言葉はひとつも知らない。
*
拓海が、近所のスーパーへ出ていった。塩を切らしていた。あの子は昔から、肝心なものを忘れる。
台所に、須磨子とランが残された。
蛇口から、水滴がひとつ落ちる。その音が、やけに大きく聞こえた。須磨子は梅を洗う手を動かし続けた。何か言わなければ、と思うほど、口は重くなった。やかんが、かたりと鳴る。それきり、また静かになる。
ランが、エプロンのポケットから携帯を出した。慣れた手つきで何かを操作すると、それを須磨子のほうへ、まな板の脇に、そっと立てかける。
画面に向かって、ランが小さく話した。やわらかい、聞いたことのない響きの言葉だった。
ひと呼吸おいて、携帯から声がした。平らな、女の声。
「この 梅は、とても きれいな 色です。作るところを、見ても いいですか」
須磨子は、手を止めた。濡れた指から、水がぽたりと落ちた。
*
それからは、その小さな機械を挟んで進んだ。
須磨子が梅を見せ、塩を入れる甕を指でとんとんと叩くと、ランがうなずく。ランが何か尋ね、機械が日本語に直す。須磨子が答え、機械が向こうの言葉にする。
声が出るまでに、数秒かかった。その数秒、二人は互いの顔を見て、次を待った。待つあいだ、ランはいつも少しだけ口元をゆるめている。その間が、なぜか、嫌ではなかった。
「塩はね、量らないの」
須磨子は梅をひとつ手に取って、塩をまぶしてみせた。分量は、はかりにのせない。指の股からこぼれていく白いものの、その落ち方で覚える。母から、そう教わった。
機械が、それを訳した。ランは画面を見て、それから須磨子の手元を、長いこと見ていた。携帯を、一度、横に伏せて置いた。
そして、自分の手を、ざるの梅へ伸ばした。
塩をつかむ。こぼす。多すぎたのだろう、白いものが梅の山にどさりと落ちて、ランが、あ、という顔をした。それから、こらえきれずに小さく笑った。
須磨子は、その手に自分の手を重ねた。骨ばった指の上に、若い、なめらかな指がある。こう、と力を加減して、塩を梅の肌へ薄く伸ばしていく。ランの手が、ゆっくり、そのとおりに動いた。
言葉は、間にいなかった。
*
拓海が塩の袋を提げて帰ってきたとき、台所には、甘酸っぱい匂いが立っていた。
「えっ、もう始めてんの。塩、なかったじゃん」
須磨子は、戸棚の奥にわずかに残っていた塩の壺を指した。「足りた」
拓海は怪訝そうな顔をして、それから、まな板の脇に伏せて置かれた携帯に気づいた。画面は、もう暗くなっている。
「それ、使ったの。ばあちゃんが?」
「あの子が」と須磨子は言いかけて、言い直した。「二人で」
ランが、須磨子の隣で、塩のついた手のひらを見せて、何か言った。今度は機械を通さなかった。須磨子にも、意味は分からない。ただ、その声の調子だけは、分かる気がした。
*
夜、二人が車で帰ったあと、須磨子は漬けたばかりの甕の蓋を、もう一度だけ開けてみた。
梅が、塩の中で、静かに汗をかきはじめている。水が上がってくるまでには、まだ何日もかかる。急いてはいけない。これも、母に言われたことだった。
昼間のことを思い返す。あの機械の声は、確かに二人のあいだを行き来した。それでも、いちばん通じたのは、塩をまぶす手の、あの重なりだったような気がする。言葉にできなかったものが、手のひらから、手のひらへ移ったような。
あの娘は、来年も、この季節に来るだろうか。
来たら、今度は機械を置いて、塩を、目で覚えてもらおう。指の股の、あの加減を。
甕の蓋を、そっと閉める。手のひらに、まだ塩の、かすかなざらつきが残っていた。