七月のはじめ、陽太が両手でかぶとむしを持って帰ってきた。公園のくぬぎの根元にいたという。角の先までまだ濡れたように黒くて、陽太の手のなかで、脚がゆっくり空をかいていた。
浩は虫かごを出してやった。屋根裏にしまってあったやつだ。自分が子どものころに使っていたのと、たぶん同じ形をしている。腐葉土を敷いて、木の枝を一本、斜めに立てる。陽太はゼリーの容器を置く位置を、右にしたり左にしたりして、ずいぶん長いこと迷っていた。
「なまえ、くろちゃん」
そう言って、陽太はかごに顔を近づけた。息がかかって、かぶとむしの角が少し動いた。
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その晩、浩はスマートフォンで虫の写真を撮った。飼育を助けるアプリに読ませると、種類と、おおよその成虫の寿命が出た。夏を越えることは、あまりない、と書いてあった。
画面を消して、しばらく天井を見ていた。
陽太はまだ、生きものが死ぬということを、うまく知らない。金魚も、去年の夏の蝉も、いつのまにか話に出なくなっただけだ。ほんとうのところを、まだ手で触っていない。
教えたほうがいいのか。それとも、言わずにおいて、そのときが来たら一緒に驚けばいいのか。浩は決められないまま、隣の部屋の、規則正しい寝息を聞いていた。
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夏はふくらんでいった。
陽太は毎朝、起きるとまず虫かごをのぞいた。ゼリーが減っていると、それだけで機嫌がよかった。土に潜って出てこない日は、心配して何度も枝をどけようとするので、そのたびに浩は「そっとしといてやれ」と言った。
「くろちゃん、げんきかな」
「潜ってるだけだ。夜になったら出てくる」
実際、日が落ちると、かごの中でかさかさと音がした。陽太はその音を、布団のなかで聞くのが好きだった。「うごいてる」と、暗がりで小さくつぶやくのが聞こえた。
浩は、アプリをもう開かなかった。あと何日、という数字を知っていることが、だんだん重くなっていた。知らないふりで枝を組み替え、腐葉土を足した。それが、いま自分にできることのようだった。
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八月の終わりの、朝だった。
陽太の声で目が覚めた。いつもの、ゼリーが減っていた朝の声とは違った。浩が部屋へ行くと、陽太はかごの前にしゃがんで、動かなかった。
かぶとむしは、土の上で、脚を縮めて横になっていた。角の黒が、少しくすんで見えた。
陽太は枝でそっとつついた。動かない。もう一度、そっと。それから浩を振り返って、「ねてる?」と聞いた。そうであってほしい、という顔だった。
浩は膝をついた。うそをつく言葉を、いくつか用意しかけて、やめた。
「起きないんだ。もう」
陽太の顔が、ゆっくり崩れた。声を上げて泣くまでに、少し間があった。その間の、何かをこらえるような、こらえきれないような表情を、浩は忘れないだろうと思った。
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庭の、くぬぎに似た木の下に、二人で穴を掘った。
陽太は自分の手で土をかけたがった。小さな手で何度も土をすくって、へこみを埋めていく。最後にゼリーの容器を横に置いて、それから、しばらくそこを見ていた。
「くろちゃん、さむくない?」
「土のなかは、あったかいよ」
ほんとうかどうか、浩にはわからなかった。わからないまま、そう言った。陽太はうなずいて、掌についた土を、半ズボンにこすりつけた。
蝉が鳴いていた。夏の、いちばん濃い時間の音だった。
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夜、寝る前に、陽太が聞いた。
「らいねんも、くろちゃんいる?」
同じ虫がまた来ることはない。それは浩にもわかる。けれど、来年のくぬぎの根元に、また別の一匹がいるかどうかは、誰にもわからなかった。アプリにも、たぶん、書いていない。
「わからないな」
浩は正直にそう言って、陽太の髪に手を置いた。陽太は不服そうに口をとがらせたが、やがて目を閉じた。
浩は、空になった虫かごを片づけずに、窓ぎわにそのまま置いておいた。腐葉土のにおいが、まだ少し残っていた。来年の夏、この子がまた誰かを両手で連れて帰ってきたとき、この、いなくなったあとの匂いを、覚えているだろうか。
それとも、覚えていないほうが、いいのだろうか。
窓の外で、蝉が一匹、鳴きやんだ。