AI活用の教科書

かぶとむし

物語2026年7月21日4 分で読了執筆: 翔平

夏のはじめ、六歳の息子が一匹のかぶとむしを飼いはじめる。その虫にあとどれくらいの時間が残っているかを、父はもう知っている。

読み物親子

 七月のはじめ、陽太が両手でかぶとむしを持って帰ってきた。公園のくぬぎの根元にいたという。角の先までまだ濡れたように黒くて、陽太の手のなかで、脚がゆっくり空をかいていた。

 浩は虫かごを出してやった。屋根裏にしまってあったやつだ。自分が子どものころに使っていたのと、たぶん同じ形をしている。腐葉土を敷いて、木の枝を一本、斜めに立てる。陽太はゼリーの容器を置く位置を、右にしたり左にしたりして、ずいぶん長いこと迷っていた。

 「なまえ、くろちゃん」

 そう言って、陽太はかごに顔を近づけた。息がかかって、かぶとむしの角が少し動いた。

 その晩、浩はスマートフォンで虫の写真を撮った。飼育を助けるアプリに読ませると、種類と、おおよその成虫の寿命が出た。夏を越えることは、あまりない、と書いてあった。

 画面を消して、しばらく天井を見ていた。

 陽太はまだ、生きものが死ぬということを、うまく知らない。金魚も、去年の夏の蝉も、いつのまにか話に出なくなっただけだ。ほんとうのところを、まだ手で触っていない。

 教えたほうがいいのか。それとも、言わずにおいて、そのときが来たら一緒に驚けばいいのか。浩は決められないまま、隣の部屋の、規則正しい寝息を聞いていた。

 夏はふくらんでいった。

 陽太は毎朝、起きるとまず虫かごをのぞいた。ゼリーが減っていると、それだけで機嫌がよかった。土に潜って出てこない日は、心配して何度も枝をどけようとするので、そのたびに浩は「そっとしといてやれ」と言った。

 「くろちゃん、げんきかな」

 「潜ってるだけだ。夜になったら出てくる」

 実際、日が落ちると、かごの中でかさかさと音がした。陽太はその音を、布団のなかで聞くのが好きだった。「うごいてる」と、暗がりで小さくつぶやくのが聞こえた。

 浩は、アプリをもう開かなかった。あと何日、という数字を知っていることが、だんだん重くなっていた。知らないふりで枝を組み替え、腐葉土を足した。それが、いま自分にできることのようだった。

 八月の終わりの、朝だった。

 陽太の声で目が覚めた。いつもの、ゼリーが減っていた朝の声とは違った。浩が部屋へ行くと、陽太はかごの前にしゃがんで、動かなかった。

 かぶとむしは、土の上で、脚を縮めて横になっていた。角の黒が、少しくすんで見えた。

 陽太は枝でそっとつついた。動かない。もう一度、そっと。それから浩を振り返って、「ねてる?」と聞いた。そうであってほしい、という顔だった。

 浩は膝をついた。うそをつく言葉を、いくつか用意しかけて、やめた。

 「起きないんだ。もう」

 陽太の顔が、ゆっくり崩れた。声を上げて泣くまでに、少し間があった。その間の、何かをこらえるような、こらえきれないような表情を、浩は忘れないだろうと思った。

 庭の、くぬぎに似た木の下に、二人で穴を掘った。

 陽太は自分の手で土をかけたがった。小さな手で何度も土をすくって、へこみを埋めていく。最後にゼリーの容器を横に置いて、それから、しばらくそこを見ていた。

 「くろちゃん、さむくない?」

 「土のなかは、あったかいよ」

 ほんとうかどうか、浩にはわからなかった。わからないまま、そう言った。陽太はうなずいて、掌についた土を、半ズボンにこすりつけた。

 蝉が鳴いていた。夏の、いちばん濃い時間の音だった。

 夜、寝る前に、陽太が聞いた。

 「らいねんも、くろちゃんいる?」

 同じ虫がまた来ることはない。それは浩にもわかる。けれど、来年のくぬぎの根元に、また別の一匹がいるかどうかは、誰にもわからなかった。アプリにも、たぶん、書いていない。

 「わからないな」

 浩は正直にそう言って、陽太の髪に手を置いた。陽太は不服そうに口をとがらせたが、やがて目を閉じた。

 浩は、空になった虫かごを片づけずに、窓ぎわにそのまま置いておいた。腐葉土のにおいが、まだ少し残っていた。来年の夏、この子がまた誰かを両手で連れて帰ってきたとき、この、いなくなったあとの匂いを、覚えているだろうか。

 それとも、覚えていないほうが、いいのだろうか。

 窓の外で、蝉が一匹、鳴きやんだ。

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