AI活用の教科書

鏡の中

物語2026年8月9日4 分で読了執筆: 翔平

残暑の理髪店。はじめての散髪を怖がる子と、その手を引いてきた父と、変わらぬ手つきの老いた理髪師。三つの顔が、ひとつの鏡に映る。

読み物近未来家族

九月に入っても、蝉はまだ鳴いていた。

商店街のはずれの理髪店に、朝の光がななめに差していた。硝子戸の外で、赤と白と青の柱がゆっくり回っている。もう何十年も、同じ速さで回り続けている柱だった。

戸を引くと、乾いた鈴の音がした。

「いらっしゃい」

奥から出てきたのは、白髪の理髪師だった。背は少し丸くなったが、声は昔のままだ。翔太はその声を、体のどこかで覚えている気がした。

「久しぶりだね。大きくなって」

理髪師は翔太に言ったのではなかった。翔太の手につながれた、小さな手のほうを見ていた。

蓮は父の脚のうしろに半分隠れていた。四つになったばかりの子どもで、髪を切るのは今日がはじめてだった。

「こわくないよ」

翔太はそう言ったが、蓮の手はきゅっと固くなった。

町にはもう、座るだけで機械が髪を整える店がいくつもある。人の手はいらない。予約もいらない。数字を入れれば、寸分たがわず同じ形に仕上がる。翔太の家の近くにも一軒できて、妻はそこで切っている。

それでも今朝、翔太はこの店まで電車で来た。理由をうまく言葉にはできなかった。ただ、はじめての散髪くらいは、と思っただけだ。

「この椅子に、板を渡すからね」

理髪師は、背もたれに一枚の木の板を渡した。子どもを高くするための板だった。艶が出るほど使い込まれて、角が丸くなっている。翔太はその板を知っていた。

蓮はなかなか椅子に上がらなかった。

「いやだ」

小さな声だった。鏡のなかの自分と目が合って、蓮はまた父の脚に戻ってしまう。

理髪師は急がなかった。白い布を手にしたまま、待っていた。せかす言葉も、なだめる言葉も言わない。ただ、待っている。

翔太はふいに、自分がこの椅子に座れなかった日のことを思い出した。三十年より前のことだ。同じように泣いて、同じように父の脚のうしろにいた。あのとき理髪師は、やはり急がずに待っていた。若かった手が、今より少しだけ大きく見えた気がする。

「蓮」

翔太は膝を折って、子どもと目の高さを合わせた。

「父さんも、ここで泣いたんだよ。ちっちゃいとき」

蓮が父を見た。

「ないたの」

「泣いた。この椅子で」

蓮はしばらく黙って、それから、板の上によじ登った。

はさみが鳴りはじめた。

しゃり、しゃり、と、乾いた音がする。機械のたてる音とは違う、間のある音だった。理髪師の手は、蓮のやわらかい髪をすくっては落とし、また少し切る。急がず、けれど止まらない。

蓮は最初、肩をこわばらせていた。鏡のなかで、切られていく自分をじっと見ている。

温かいものが首すじに触れた。蒸したタオルだった。理髪師がそっと当てると、蓮の肩から力が抜けていくのが、うしろから見ていても分かった。

翔太もその温かさを覚えていた。首の後ろで、世界がふっとやわらかくなる、あの感じ。数字では出てこない温度だった。

「じっとしてて、えらいね」

理髪師が言うと、蓮は鏡のなかで、ほんの少しだけ笑った。

切り終わって、理髪師は椅子をくるりと回した。

大きな鏡が、三人を映していた。

いちばん手前に、はじめて髪を切ったばかりの蓮がいる。すっきりした襟足を、自分の手でさわっている。そのうしろに翔太が立っていて、いちばんうしろに、白髪の理髪師がいた。

三つの顔が、ひとつの鏡のなかに並んでいた。

翔太は、その真ん中に自分がいることが、少し不思議だった。かつては手前にいた。父に手を引かれ、この人に髪をあずけた側だった。それがいつのまにか、うしろに立つ側になっている。

蓮が鏡ごしに翔太を見上げた。

「とうさんも、きる?」

翔太はうなずいた。板を外してもらい、まだ温かいその椅子に座る。首に白い布が回されて、鏡のなかの自分が、少しだけ幼く見えた。

しゃり、と、うしろではさみが鳴った。

外では柱が、変わらぬ速さで回り続けている。次に手前の椅子に子どもを連れてくるのは、いつか、この小さな手のほうかもしれない。

たぶん。

はさみの音を聞きながら、翔太は鏡のなかの三つの顔を、もう一度だけ見た。

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