九月に入っても、蝉はまだ鳴いていた。
商店街のはずれの理髪店に、朝の光がななめに差していた。硝子戸の外で、赤と白と青の柱がゆっくり回っている。もう何十年も、同じ速さで回り続けている柱だった。
戸を引くと、乾いた鈴の音がした。
「いらっしゃい」
奥から出てきたのは、白髪の理髪師だった。背は少し丸くなったが、声は昔のままだ。翔太はその声を、体のどこかで覚えている気がした。
「久しぶりだね。大きくなって」
理髪師は翔太に言ったのではなかった。翔太の手につながれた、小さな手のほうを見ていた。
*
蓮は父の脚のうしろに半分隠れていた。四つになったばかりの子どもで、髪を切るのは今日がはじめてだった。
「こわくないよ」
翔太はそう言ったが、蓮の手はきゅっと固くなった。
町にはもう、座るだけで機械が髪を整える店がいくつもある。人の手はいらない。予約もいらない。数字を入れれば、寸分たがわず同じ形に仕上がる。翔太の家の近くにも一軒できて、妻はそこで切っている。
それでも今朝、翔太はこの店まで電車で来た。理由をうまく言葉にはできなかった。ただ、はじめての散髪くらいは、と思っただけだ。
「この椅子に、板を渡すからね」
理髪師は、背もたれに一枚の木の板を渡した。子どもを高くするための板だった。艶が出るほど使い込まれて、角が丸くなっている。翔太はその板を知っていた。
*
蓮はなかなか椅子に上がらなかった。
「いやだ」
小さな声だった。鏡のなかの自分と目が合って、蓮はまた父の脚に戻ってしまう。
理髪師は急がなかった。白い布を手にしたまま、待っていた。せかす言葉も、なだめる言葉も言わない。ただ、待っている。
翔太はふいに、自分がこの椅子に座れなかった日のことを思い出した。三十年より前のことだ。同じように泣いて、同じように父の脚のうしろにいた。あのとき理髪師は、やはり急がずに待っていた。若かった手が、今より少しだけ大きく見えた気がする。
「蓮」
翔太は膝を折って、子どもと目の高さを合わせた。
「父さんも、ここで泣いたんだよ。ちっちゃいとき」
蓮が父を見た。
「ないたの」
「泣いた。この椅子で」
蓮はしばらく黙って、それから、板の上によじ登った。
*
はさみが鳴りはじめた。
しゃり、しゃり、と、乾いた音がする。機械のたてる音とは違う、間のある音だった。理髪師の手は、蓮のやわらかい髪をすくっては落とし、また少し切る。急がず、けれど止まらない。
蓮は最初、肩をこわばらせていた。鏡のなかで、切られていく自分をじっと見ている。
温かいものが首すじに触れた。蒸したタオルだった。理髪師がそっと当てると、蓮の肩から力が抜けていくのが、うしろから見ていても分かった。
翔太もその温かさを覚えていた。首の後ろで、世界がふっとやわらかくなる、あの感じ。数字では出てこない温度だった。
「じっとしてて、えらいね」
理髪師が言うと、蓮は鏡のなかで、ほんの少しだけ笑った。
*
切り終わって、理髪師は椅子をくるりと回した。
大きな鏡が、三人を映していた。
いちばん手前に、はじめて髪を切ったばかりの蓮がいる。すっきりした襟足を、自分の手でさわっている。そのうしろに翔太が立っていて、いちばんうしろに、白髪の理髪師がいた。
三つの顔が、ひとつの鏡のなかに並んでいた。
翔太は、その真ん中に自分がいることが、少し不思議だった。かつては手前にいた。父に手を引かれ、この人に髪をあずけた側だった。それがいつのまにか、うしろに立つ側になっている。
蓮が鏡ごしに翔太を見上げた。
「とうさんも、きる?」
翔太はうなずいた。板を外してもらい、まだ温かいその椅子に座る。首に白い布が回されて、鏡のなかの自分が、少しだけ幼く見えた。
しゃり、と、うしろではさみが鳴った。
外では柱が、変わらぬ速さで回り続けている。次に手前の椅子に子どもを連れてくるのは、いつか、この小さな手のほうかもしれない。
たぶん。
はさみの音を聞きながら、翔太は鏡のなかの三つの顔を、もう一度だけ見た。