夏休みは、あと一日で終わる。
朝から曇っていた。海へ行くには遅い時間で、宿題はもう終わっている。何もすることがなくて、拓也は朝からずっと自分の部屋にいた。
「水族館、行くか」
昼前に、父がそう言った。理由は言わなかった。拓也も、行きたいとも行きたくないとも言わなかった。ただ、靴を履いた。
*
平日の水族館は、すいていた。
夏休みの最後だからか、家族連れがちらほらいるだけで、館内は静かだった。入り口で渡された案内の端末は、順路とおすすめの見どころを声で教えてくれる。父はそれを鞄にしまったまま、出さなかった。
「どこから見る」
「どこでもいい」
拓也の返事はいつもそれだった。小学五年の夏から、口数がずっと少ない。何かあったわけではない、と本人は言う。ただ、二学期が近づくにつれて、朝、布団から出るのが遅くなっていた。
父は、何も聞かなかった。聞いても「べつに」と返ってくることは、もう分かっていた。
*
大きな水槽の前に出た。
天井まで届くほどの、青い水の壁。その中を、銀色の魚の群れが回っていた。何百匹もいる。同じ方向に、ゆっくりと、輪を描いて泳いでいる。
拓也は、その前で足を止めた。
魚たちは、どこにも行かない。ただ、同じところをぐるぐると回っている。速くもなく、遅くもなく。先頭がどこなのかも分からない。ときどき群れがひとかたまりになって向きを変え、光の当たり方でいっせいに色を変えた。
父も隣に立った。二人とも、しばらく何も言わなかった。
「これ、疲れないのかな」
ぽつりと、拓也が言った。
「魚が?」
「ずっと同じとこ回ってて。前に進んでないのに」
父は、水槽を見た。銀色の帯が、また向きを変えた。
「進んでるんじゃないか」と父は言った。「回ってるだけに見えるけど」
拓也は答えなかった。ガラスに顔を近づけて、一匹の魚を目で追っていた。すぐに群れにまぎれて、どれがどれだか分からなくなる。
*
ベンチに座って、二人で缶のお茶を飲んだ。
売店で買った、冷たいやつ。拓也は缶を両手で持って、水槽のほうを見ていた。青い光が、床にゆらゆらと落ちている。
「二学期さ」
拓也が、水槽を見たまま言った。
「うん」
「行きたくないとかじゃ、ないんだ。ただ、なんか」
そこで言葉が止まった。父は続きを待った。急かさなかった。
「みんな、ちゃんと前に進んでる感じがして。俺だけ、同じとこ回ってる気がする」
拓也は、それだけ言って、また口を閉じた。缶を持つ手に、少し力が入っていた。
父は、すぐには何も言えなかった。うまい言葉が、出てこなかった。こういうとき、鞄の端末に聞けば、気の利いた励ましを教えてくれるのかもしれない。でも、そういうものではない気がした。
しばらくして、父は水槽を指さした。
「あの魚さ」
「うん」
「ずっと回ってるだろ。あれ、止まったら死ぬんだと。泳ぐのやめると、息ができなくなる種類がいるらしい」
拓也が、父のほうを見た。
「だから、あいつら、進んでるかどうかとか、たぶん考えてない。ただ、口を開けて、水を通して、泳いでる。それだけで、ちゃんと生きてる」
拓也は、また水槽に目を戻した。銀色の群れが、ゆっくりと回っていた。どこにも着かないまま、それでも一匹も止まっていない。
*
帰りの電車は、空いていた。
窓の外は、もう夕方だった。曇り空の切れ間から、低いところにだけ光が差していた。田んぼの緑が、ところどころ金色になっていた。
拓也は、窓に額をつけて、外を見ていた。
「なあ」
「ん?」
「明日、学校のノート、どこにやったか分かんない」
父は、少し笑った。
「一緒に探すか」
「うん」
それきり、二人とも黙った。電車が、ゆっくり揺れた。進んでいるのか、止まっているのか、窓の外だけ見ていると分からなくなる。でも、たしかに、家のほうへ動いていた。
拓也の目の奥に、まだあの青い水槽が残っている気がした。銀色の魚が、輪を描いて、どこにも行かずに、それでも泳ぎ続けている。
明日は、二学期が始まる。
拓也は、少しだけ、窓に映った自分の顔を見た。それから、また外を見た。田んぼの金色が、後ろへ流れていった。