稲は頭を垂れていた。金色の海みたいだ、と拓は思ったが、口には出さなかった。都会から新幹線と各駅を乗り継いで三時間、駅からじいちゃんの軽トラで二十分。ここには電波の弱い場所がある、と父が言っていた。ほんとうだった。ポケットの中で、画面の端の輪が、さっきからずっと回っている。
「拓、久しぶりやな」
いとこの陽が、あぜ道の向こうから手を上げた。去年より背が伸びている。同い年なのに、日に焼けた腕は、拓のよりずっと太かった。盆と彼岸に会うだけの相手に、最初の一言をどう返せばいいのか、拓はいつも分からなくなる。
「……久しぶり」
スマホを鞄の底に押し込むと、輪が回っているのが見えなくなって、少しだけ息が楽になった。
*
田んぼの隅で、じいちゃんが竹を組んでいた。二本の竹を十字に縛って、そこに古いシャツを着せていく。腰が曲がっている。指の節が太くて、紐を結ぶ手つきが、拓の目にはひどく遅く見えた。
田の真ん中に、細いポールが一本立っている。ときどき、鷹の声に似た音を短く鳴らした。光が一瞬、銀色に散る。
「あれ、なに」
「鳥よけ。音と光で鳥が来ん」陽が言った。「じいちゃんが去年、市役所からもろた」
拓はポールとじいちゃんの手元を見比べた。「じゃあ、かかし、いらなくない?」
じいちゃんは笑った。返事はしない。手も止めない。シャツの袖に、丸めた新聞紙を詰めていく。袖がだんだんふくらんで、腕の形になっていった。
*
「持っとって」
陽に竹を渡された。拓は言われるまま、十字の竹をまっすぐ立てて支えた。陽が根元を縄で結ぶ。拓もやってみたが、縄はすぐにゆるんで、竹が傾いた。
「そこ、こうやって」
陽の指が、拓の指の上に重なった。二重に縄をかけて、ぐっと引く。手のひらに縄の跡がついた。二度目はひとりでできた。三度目は、少し速くできた。
土の匂いがした。都会では嗅いだことのない、水を含んだ、青くさい匂い。日はまだ高いのに、風だけが先に秋になっていた。
シャツの胸のところに、じいちゃんが麦わら帽子をのせようとして、やめた。
「拓の、貸してくれるか」
拓は自分の頭に手をやった。キャップは、駅前で買ったばかりの、青いやつだった。少し迷って、ぬいだ。汗で湿った内側が、風にあたって冷たかった。
十字の竹のてっぺんに、青いキャップがのった。両腕をいっぱいに広げたそれは、遠くから見ると、だれかが田んぼの真ん中で手を振っているみたいだった。
「名前、つけよ」陽が言った。
拓は考えて、思いつかなくて、「わからん」と言った。陽も「じゃあ、たく」と、あっさり言った。拓のキャップをかぶっているから。それだけの理由だった。
拓は笑った。声を出して笑ったのは、着いてから初めてだった。
*
夕方、田を出るとき、拓は一度だけ振り返った。
鳥よけのポールが、また鷹の声を鳴らした。銀色が散った。そのすぐそばで、青いキャップのかかしが、両手を広げて立っていた。鳥は、そっちには来なかった。来ても、来なくても、かかしはただ立っていた。
*
帰りの各駅停車の窓に、拓は額をつけた。
金色の田が流れていく。その中に、ぽつんと、両手を広げた小さな影がある。青い点が、てっぺんで揺れている。電車が速くなるにつれて、影はどんどん後ろへ遠ざかった。
来年、あれはまだ立っているだろうか。キャップは色があせて、シャツは雨で重くなって、それでも腕を広げたまま。
たぶん。
拓は、見えなくなるまで、額を窓から離さなかった。手を振っているのが、かかしなのか、自分なのか、途中で分からなくなった。