盆を過ぎても、昼の光はまだ夏のかたちをしていた。
美咲が実家の門をくぐると、蝉の声に混じって、つくつくぼうしが一匹だけ鳴いていた。夏の終わりにだけ出てくる声だ。子どものころ、この声を聞くと宿題のことを思い出して胃が重くなった。今はもう、なぜだか少しさびしい。
縁側に父が座っていた。半年ぶりに見る背中は、記憶より薄かった。
「ただいま」
父が首をこちらに向けた。目は美咲の顔ではなく、その少し横を見ていた。ここ二年で、父の視界はゆっくりと狭くなっている。真ん中がかすんで、端のほうに世界がわずかに残っているのだと、電話で聞いていた。
「おう。電車、混んどったか」
「そうでもない」
美咲は靴を脱ぎ、父の隣に腰を下ろした。畳のへりの、決まった位置。子どものころからそこが自分の場所だった。
*
父の手元に、手のひらほどの機械が置いてあった。カメラのついた、平たい板のようなもの。夏の初めに、弟が置いていったらしい。カメラを向けると、そこに写るものを声で読み上げてくれる。
父がそれを庭のほうへ向けた。
「正面に、木。緑の葉。実がひとつ。オレンジではなく、緑」
機械の声は、天気予報を読むみたいに平らだった。正しくて、なんの温度もない声。
「柿な」と父が言った。「今年は一個しか、ならんかった」
美咲は庭を見た。父の育てた柿の木に、たしかに実がひとつだけ、枝の先についていた。まだ固そうで、青い。日の当たるところだけ、ほんの少し色がゆるんでいる。
「もう見えんのやろ、それ」
言ってから、しまった、と思った。父は笑った。
「だいたいは、わかる。緑って、あれが言うたやろ」
あれ、と父は機械のことを言った。名前は覚えていないらしい。
*
夕方になって、光が斜めになった。
庭の柿が、昼とは違う色になっていた。父はまた機械を向けた。
「実がひとつ。緑」
さっきと同じ言葉だった。機械にとっては、昼も夕方も、その実は「緑」でひとくくりなのだろう。
美咲は、なんだか納得がいかなかった。
「ちがうよ」
「なにが」
「今の柿、緑って感じじゃない」
父がこちらを向いた。見えていないはずの目が、まっすぐ美咲のほうを探していた。
「じゃあ、なんや」
美咲は言葉をさがした。うまく言えるものではなかった。
「熟れる前の、みかんの色。あるでしょ、まだ甘くない、酸っぱいやつ。あれを、もうちょっと固くした感じ。てっぺんのほうだけ、夕日が当たって、ちょっと赤い」
父は黙って聞いていた。それから、ゆっくりうなずいた。
「ああ」と言った。「わかる」
その「わかる」は、機械に向かって言った「わかる」とは、少しちがう声だった。
*
日が落ちてから、二人で縁側にいた。
「小さいころ、おまえ、青い柿かじって、泣いとったな」と父が言った。
覚えていない。でも、父の中にはその絵がある。渋くて口が曲がって、それでも負けん気で二口目をかじった、小さい自分。父の見ている美咲は、たぶん今も、そのころのままの色をしている。
「今のわたしは、どんなふうに見えてるの」
聞いてから、意地の悪い質問だと思った。父には、もう娘の顔ははっきりとは見えない。
父はしばらく考えて、言った。
「声が、母さんに似てきた」
美咲は返事ができなかった。かわりに、庭の柿を見た。暗くなって、もう色はわからない。でも、そこにひとつあることは、知っている。
*
帰る前の朝、美咲は庭に出た。
柿の実は、まだ青かった。指で触れると、固い。秋の終わりまで待てば、きっと、あのオレンジ色になる。父にはもう、その色は見えないかもしれない。
美咲は縁側に戻って、父に言った。
「あの柿、色が変わったら、電話する」
父は湯のみを持ったまま、少し笑った。
「毎日、聞くぞ」
「毎日、言うよ。今日は何色って」
機械なら、熟れた日にきっと正しく「オレンジ」と読み上げる。数字みたいに、まちがいなく。
でも、それを言うのは、たぶん自分がいい。みかんより赤いのか、夕日みたいなのか、母さんの帯の色に近いのか。うまく言えなくても、言葉をさがしている間の、その数秒ごと。
門を出るとき、つくつくぼうしがまた鳴いた。
夏が、終わっていく。柿は、これから色づく。