夕方になっても風は熱を持っていた。石段の下から祭り囃子が上がってくる。湊は境内の入口で足を止め、画面をもう一度見た。十七時四十分、屋台の通りへ。十八時、本殿で手を合わせる。十八時半、いちばん空いている時間の焼きとうもろこし。分刻みの案内が、上から下へ静かに並んでいた。
昨日の夜、遅くまでかけて組んでもらった。混雑の少ない順路。待ち時間の短い店。写真の映える場所と、その時刻の光の向き。手のひらの中の予定は、どこにも隙がなかった。
遥が来なくなる。九月には、飛行機で三時間の街へ行ってしまう。だから今年の夏祭りは、これまでで一番いい夜にしたかった。失敗したくなかった。並ぶ列を間違えて、見たかった花火の始まりに遅れる。そういうことを、もう起こしたくなかった。
*
「おまたせ」
浴衣の裾を気にしながら、遥が坂を上ってきた。下駄の音が不規則に鳴る。湊は画面を見せた。今日はこう回る、と。空いてる店を先に押さえてあるから、と。
遥はのぞき込んで、少し笑った。
「すごいね。旅行みたい」
褒められたのか、そうでないのか、うまく読めなかった。湊は画面を伏せて、まず屋台の通りへ、と歩き出した。予定では、ここを七分で抜ける。
人混みは思ったより厚かった。りんご飴の赤、ソースの匂い、金魚の水槽の青い光。遥が立ち止まるたび、湊は手元の時刻を確かめた。少しずつ、案内より遅れていく。焼きとうもろこしの列に着いたときには、空いているはずの時間はとっくに過ぎていた。
「別のにする?」
湊が言うと、遥は首を横に振った。
「並ぼうよ。話しながら待てるし」
*
列は進まなかった。汗が背中を流れる。画面の中では、次の予定が赤くなっていた。予定の時刻を過ぎました、と静かに知らせている。湊はそれを、指の腹でそっと消した。
結局、とうもろこしは食べそびれた。焼き上がりを待つうちに、本殿へ向かう時刻も、写真の場所の光も、順番に手のひらからこぼれていった。組んだ予定は、もうほとんど役に立たなくなっていた。
湊は焦っていた。せっかくの夜を、崩している気がした。
遥は、そんな湊の顔をちらりと見て、通りの端の店を指さした。氷、と赤い旗が揺れている。
「あれ、食べよ。暑いし」
予定には、なかった。
*
石段の脇に並んで座った。人の流れから少し外れた、囃子の音が遠くなる場所だった。二人でひとつのかき氷を、真ん中に置いた。ブルーハワイの、目が覚めるような青。
スプーンを入れると、削った氷は思ったより早く崩れた。表面がゆるんで、青いシロップが器の底へ溜まっていく。食べるより、溶けるほうが速いくらいだった。
「溶けちゃうね」
遥がそう言って、けれど急ぐでもなく、ゆっくりすくった。湊も、もうひとつのスプーンを動かした。冷たさが、こめかみの奥をきんと刺した。
予定は、とうに崩れていた。回るはずだった順路も、押さえたはずの店も、全部あとになった。それなのに、この石段の、遠い囃子と、青くなった舌先と、遥の下駄がぶらぶら揺れているのだけは、どこにも書いていなかった。書きようがなかった。
組んでもらった夜のどこにも、この時間は入っていなかった。入れられなかったのだと、湊は思った。
*
氷は半分、水になっていた。器の底に、青い液が光っている。遥はそれを、まだ捨てないでいる。
「来年はさ」
言いかけて、遥は口をつぐんだ。来年、二人がどこにいるのかは、まだ誰にも分からなかった。湊は続きを聞かなかった。聞かずに、溶けかけた氷を、もう一口すくった。
ポケットの中で、画面が小さく震えた。次の予定を、まだ知らせようとしている。湊はそれに、手を伸ばさなかった。
囃子の向こうで、最初の花火が上がった。予定より、ずいぶん遅い時刻だった。
遥が空を見上げる。湊も見上げる。青い水は、器の底で、まだ光ったままだった。