玄関を上がると、木の匂いがした。青くさいような、少し甘いような匂い。圭介にはそれが何の匂いか、しばらく分からなかった。
奥から、しゃっ、しゃっ、と音がしている。規則正しく、そのくせ一度ごとに少しずつ違う。
「お邪魔します」
声をかけても、音は止まらない。圭介はスニーカーをそろえ、廊下を進んだ。奈々が入院してから、この家に泊まるのは初めてだった。予定日まではまだ数日あったが、念のため近くにいてくれと、電話口で義父が言った。用件だけの、短い声だった。
*
作業場は、六畳ほどの板の間だった。窓から夕方の光が斜めに入って、宙に細かいものが舞っている。木の粉だ。
義父は台の前にかがんでいた。手元で、薄い木の板が丸まって落ちていく。しゃっ、と鉋が引かれるたび、渦を巻いた削り屑が床にこぼれた。小さな椅子の脚を、削っているらしかった。
「奈々は、変わりないです」
圭介が言うと、義父は手を止めずに、ああ、とだけ答えた。それきり、また音が続いた。
台の隅に、板を挟んで留める道具や、金物が並んでいる。壁には物差しが何本もかかっていた。部屋の隅の棚に、平たい機械が立てかけてある。木を入れれば、頼んだ形に削って返してくるやつだ。町の工房にもある。寸法を言えば、図面くらいすぐ画面に出る。
義父はそれを使っていなかった。手のひらを板の面に当て、目を細め、また鉋を引く。指の腹で角をなで、まだだ、というように、もう一度引く。
「……手伝います」
言ってから、圭介は自分の声が細いのに気づいた。義父は少しのあいだ黙って、それから、そこの押さえを持て、と顎で示した。
*
板は思ったより硬かった。圭介が押さえると、義父の鉋がすべる。力の入れ方が分からず、板が跳ねて、削り屑が乱れた。ちぎれた木片が、ぱらぱらと手の甲に落ちる。
「そんなに、力むな」
義父の手が、圭介の手の上に重なった。ごつごつして、乾いた手だった。押さえる場所が、ほんの少しずらされる。それだけで、鉋がすっと通った。長い、切れ目のない削り屑が、くるりと丸まって落ちる。
「……こういうの、いつから」
「奈々が生まれるとき、揺りかごを作った」
義父はそう言って、また板に向き直った。あのときも間に合わなかった、と小さく付け足す。生まれてから、ひと月かかった。
しゃっ、しゃっ、と音が戻る。圭介は押さえたまま、義父の手元を見ていた。機械なら、たぶん半日で仕上がる。狂いもなく、角も揃って。それでも義父は、指で測っては削り、削っては指で測っていた。何を確かめているのか、圭介には分からなかった。ただ、その手つきが、奈々が料理の味を見るときの、鍋に指を近づける仕草に似ていた。
*
日が落ちて、板の間の電灯をつけた。椅子の脚が四本、そろい始めていた。座る面はまだ荒く、義父はそこを撫でては眉を寄せる。
圭介の携帯が鳴ったのは、義父が座面に鉋を当てた、その途中だった。
病院からだった。予定より、早い。
声を聞き終える前に、義父は鉋を置いていた。上着を取りに立ち、玄関で振り返る。車を呼んだ、と言った。夜の道を、車は勝手に走っていく。ハンドルの前で、義父は膝に手を置いて、じっと前を見ていた。何も言わなかった。圭介も言えなかった。窓の外を、街の灯りが後ろへ流れていく。
義父の作業着の袖に、削り屑がひとつ、まだ引っかかっていた。渦を巻いた、薄い木。信号のあかりで、それが淡く光った。
*
産声を、廊下で聞いた。
女の子だった。小さくて、赤くて、指がちゃんと五本あった。ガラス越しに見て、圭介は自分の膝が笑うのが分かった。隣で義父が、ふう、と長く息を吐いた。それから、はじめて、口の端をゆるめた。
夜が明ける前に、二人は家に戻った。眠れるはずもなかった。どちらからともなく、作業場の電灯をつける。
義父は椅子の前に座り、鉋を取った。座面に、そっと当てる。しゃっ、と、ひと削り。長い削り屑が、くるりと丸まって、床に落ちた。
圭介はそれを、拾い上げた。手のひらに載せると、木の匂いがした。玄関で分からなかった、あの匂いだ。
「まだ、名前も、決まってないのに」
義父は手を止めなかった。
「間に合わせる」
窓の外が、うっすら白んでいる。秋の、はじめの光だった。床には削り屑が、いくつもいくつも、渦を巻いて散っていた。圭介は手の中の一片を、そっとシャツの胸ポケットにしまった。この匂いを、あの子はいつか、覚えているだろうか。