窓の外が、昼のように白く光った。少し遅れて、遠くで低い音が転がる。
志穂は流しの手を止めて、空を見上げた。夕方の五時だというのに、雲が墨を流したように厚い。天気の通知は昼まで「今夜は降りにくい」と出ていた。それが数時間で変わっていた。機械の予想も、この季節の空にはよく裏切られる。
スマートフォンの地図に、小さな点がひとつ光っている。莉子の居場所。塾のある建物で、さっきから動いていない。授業はもう終わっている時間だった。配車を呼べば、五分で車が着く。濡れずに、玄関の前まで帰ってこられる。指がその画面の上でしばらく迷って、離れた。
莉子は、この春から中学二年になった。夫の連れ子で、志穂がこの家に来て、まだ一年と少し。「一人で帰れるから」と、莉子はいつも言う。その言葉のうしろにあるものを、志穂はうまく測れずにいた。
夫は、三日前から出張で家にいない。
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傘立てから、大きめのを一本だけ抜いた。二本持っていけば、莉子は自分のほうを差して、間があいたまま歩くだろう。そんな気がした。
玄関を出ると、雨のにおいがした。まだ降ってはいない。志穂は駅とは反対の、塾へ続く坂道を、早足で下りた。呼ばなかった。迎えに行くと連絡すれば、たぶん「いい」と返ってくる。だから何も言わずに、ただ傘を持って歩いた。押しつけにならない距離の測り方を、志穂はいつも探している。
坂の途中で、最初の一粒が腕に落ちた。それから、堰を切ったように降りだした。志穂は傘を開いて、走った。
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塾の軒下に、莉子はいた。制服の肩を縮めて、降りはじめた雨をじっと見ていた。志穂に気づくと、目を少し見開いた。
「……来なくてよかったのに」
いつもの言葉だった。けれど、声の角は、いつもより少しだけ丸かった。
「近くまで来てたから」と志穂は言った。嘘だった。莉子も、たぶんそれを分かっていた。莉子は何も言わずに、傘の下に入ってきた。
二人分には、少し小さい傘だった。
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坂を上る。無言だった。雨は本降りで、路面を叩く音が、会話の代わりに二人のあいだを埋めていた。
傘の柄を、志穂が握っている。歩きながら、志穂は少しずつ、傘を莉子のほうへ傾けていた。自分の左肩が、じきに雨のしみで濃くなっていくのが分かった。冷たかったが、そのままにした。莉子の制服が、これ以上濡れないほうがいい。それだけを考えていた。
半分ほど坂を上ったところで、莉子がふいに横を見た。志穂の、濡れた肩に目を止めた。
それから、莉子の手が動いた。傘の柄に、志穂の手のすぐ下を、そっと握った。小さな力で、傘を志穂のほうへ押し戻す。かたむきが、ゆっくり真ん中に戻っていく。
「……そっち、濡れてる」
莉子は、前を向いたまま言った。呼び名は、なかった。お母さん、とも、志穂さん、とも言わなかった。この一年、莉子はまだ、志穂を何と呼ぶか決めていない。その空いた場所に、いま、傘の柄を握る指があった。
「ありがとう」と、志穂は言った。
*
信号が赤で、二人は並んで立ち止まった。柄を握る手は、二つのまま。雨が傘を叩き、そのしずくが、二人の足もとで同じ水たまりに落ちて、輪をひろげていた。志穂の右と、莉子の左が、その傘の下でようやく同じ幅に濡れていた。
青になった。歩きだす。莉子は手を離さなかった。離すきっかけが、たぶん見つからなかっただけだ。志穂も、そういうことにしておいた。
*
玄関に着くと、二人ともよく似た濡れ方をしていた。志穂が傘を閉じるあいだ、莉子は先に上がって、洗面所へ行った。戻ってきた手に、タオルが二枚あった。一枚を、無言で志穂に差し出す。
「……ん」
それだけだった。莉子は自分の部屋へ入っていった。ドアが、いつもより静かに閉まった。
志穂はタオルで肩を押さえて、たたんだ傘を傘立てに戻した。骨の内側に、まだ雨がたまっている。乾かそうと少しひらいて、その傾きをまっすぐに直そうとして、手が止まった。
あの坂の途中で、傘が真ん中に戻された瞬間の、指の重さを思い出す。呼び名の要らない、あの短いあいだのことを。
いつか莉子は、この人を何と呼ぶのだろう。それとも、呼ばないまま、こうして時々、傘を真ん中に戻してくれるのだろうか。志穂は答えを持たなかった。ただ、まだ湿ったタオルを莉子の分だけたたみ直して、部屋の前に、そっと置いた。