AI活用の教科書

蚊遣り

物語2026年7月29日4 分で読了執筆: 翔平

母のいない実家に、久しぶりに集まった姉妹の、ひと晩の話。

読み物家族姉妹

 庭に面した掃き出し窓を開けると、夕方の湿った風が入ってきた。千夏は縁側にしゃがみ、青い渦巻きの端にライターの火を近づけた。先が小さく赤くなって、細い煙がまっすぐ立つ。母がいつもそうしていたように、陶器の蚊遣り豚の腹へ、そっと差し入れる。

 母のいない家は、音の減り方が違った。

 姉が着いたのは、日が落ちきる少し前だった。玄関で靴を脱ぐ音、床のきしみ、それだけで千夏には姉だと分かる。二年ぶりだった。葬式の日を入れれば、半年ぶり。

「暑いね」

「暑い」

 姉はそう言って、麦茶のグラスを両手で持った。汗の粒がガラスを伝う。二人は縁側に並んで座った。庭の草は伸び放題で、母が植えた朝顔だけが、蔓を勝手に伸ばして塀に届いていた。

 話すことは、いくらでもあるはずだった。相続の書類。家をどうするか。仏壇のこと。けれど口から出るのは、庭の草が伸びたとか、蝉がもう鳴かなくなったとか、そういう当たり障りのないことばかりだった。

 千夏は、姉のことを長いあいだ、少し苦手だと思っていた。理由はうまく言えない。母が入院していたころ、遠くにいる姉のかわりに通ったのは千夏だった。姉は仕事を理由にした。責めたいわけではない。ただ、あのころの疲れが、名前のつかないしこりになって胸の奥に残っている。

 蚊遣りの煙が、風のない場所でだけ、まっすぐ立ちのぼった。

 夕飯のあと、片づけを始めた。台所の棚、母の寝室のたんす。手をつけずにいた場所を、二人で少しずつ開けていく。

 母の枕元に、古い型のスマートフォンがあった。充電が切れて、真っ黒だった。千夏が差込口を探して繋ぐと、しばらくして画面が灯った。

 母は、機械が得意ではなかった。それでも去年、千夏が「話しかければ天気を教えてくれる」と教えてから、ひとりで使うようになっていたらしい。姉が横から覗き込む。画面には、母が話しかけた言葉の記録が、日付ごとに並んでいた。

「あしたの天気」

「ゴミの日はいつ」

 短い問いが、几帳面に続いていた。母の声で吹き込まれたものが、文字になって残っている。千夏はそれを指で送った。

 春先の、ある夜の記録で、指が止まった。

「娘たちは、元気にしとるかね」

 問いになっていない問いだった。画面の向こうは、天気なら答えられても、それには何も返していない。ただ、母が声に出したという事実だけが、そこに残っていた。

 千夏は画面から目を上げられなかった。隣で姉が、小さく息を吸うのが分かった。

 どちらも、しばらく黙っていた。

 姉が立って、縁側に出た。千夏もついていく。蚊遣りは、いつのまにか渦の半分が灰になっていた。白い灰が、燃えたときの形のまま、細く残っている。触れれば崩れるのが分かる、その静かな形。

「あんたに、任せきりにしたね」

 姉が、庭のほうを向いたまま言った。

 千夏は、なんと返せばいいのか分からなかった。ちがう、とも、そうだよ、とも言えない。しこりは、まだそこにあった。けれど、それを姉にぶつけたところで、母の声が返ってくるわけではない。

「……もう、いいよ」

 言ってから、思ったより自分の声がやわらかいことに、千夏は少し驚いた。いい、というのが何を指すのか、自分でもよく分からなかった。ただ、そう言いたかった。

 姉は、うなずいたのか、うつむいただけなのか、分からない角度で首を動かした。

 蚊遣りの火が、渦の中心近くまで来て、心もとなくなっていた。もうじき消える。

 千夏は箱から新しい一巻きを取り出して、端に火をつけた。青い渦の外側から、また細い煙が立ちはじめる。母がしていたのと、たぶん同じ手つきで、蚊遣り豚の腹に差し入れた。

 姉が、蚊遣り豚をそっと持ち上げて、二人のちょうど真ん中あたりに置き直した。煙が、どちらの側にもかからない場所に。

 夜になっても、風は生ぬるかった。塀の朝顔は、暗くて色が分からない。それでも明日の朝には、きっと開く。

 二本目の渦が、外から静かに灰になっていくのを、二人はしばらく、ただ見ていた。

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