葵は、ポストの前で一度だけ手を止めた。
封筒の角が、指の腹に少し当たる。切手はまっすぐ貼れた。あて名も、昨日のうちに書いておいた。もう入れるだけだった。それでも、投入口の暗がりに手紙を差し入れる前に、いつも一拍、間があく。
滑らせると、かさ、と乾いた音がして、封筒は見えなくなった。二日か、三日。祖父の家まで、それくらいかかる。葵は、赤い箱の口から手を離した。
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教室では、返事はすぐに来るものだった。
昼休み、みんなが手元の画面に指を走らせる。送れば、数秒で返る。となりの席の子が「既読ついたのに返さない」と口をとがらせている。相手は、三つ後ろの席にいた。声を出せば届く距離で、二人は文字を送り合っていた。
葵も同じものを持っている。使わないわけではない。ただ、祖父とだけは、紙でやり取りをしていた。
春に、家族で祖父に画面のついた板を送った。顔を見て話せる、あれだった。設定は父がぜんぶやった。使い方も、大きな字で紙に書いて添えた。祖父は「ありがとう」と電話で言った。それきり、その板が使われている様子はなかった。
かわりに、葵のところに手紙が来るようになった。最初は葵から出した。板の礼のつもりだった。数日して、封筒が届いた。中には、便箋が一枚。祖父の字だった。
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祖父の字は、角ばっていた。
とめ、はね、はらい。一画ずつ、力を入れて書いたのが分かる字だった。葵の名前の「葵」の下の部分が、いつも少し大きくなる。画面に出る、どれも同じ形の字とは違った。読むのに、少し時間がかかる。その時間が、葵は嫌いではなかった。
手紙には、たいしたことは書いていなかった。畑の茄子がそろそろ終わることや、隣の犬が朝うるさいこと。海のほうから風が変わってきたこと。返事に困るような大ごとは、何もない。葵は、自分の一週間を書いた。部活で球拾いばかりしていること。数学が分からなくなってきたこと。書くうちに、どうでもいいことばかりだと気づく。それでも書いた。
書いた手紙を、次の朝ポストに入れる。入れてから、また待つ。待っているあいだ、葵は自分の手紙が今どのあたりを進んでいるのか、ときどき思った。トラックの荷台か、仕分けの棚か。会ったことのない誰かの手が、それを運んでいる。
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その手紙の返事は、いつもより遅かった。
いつもなら、葵が出して三日で届く。四日たっても来なかった。五日目も、ポストは空だった。葵は、玄関を出るとき、赤い箱の中をのぞく癖がついた。
べつに、と葵は思おうとした。畑が忙しいのかもしれない。犬のことで、隣とごたごたしているのかもしれない。理由なら、いくらでもつくれた。つくるほど、指先が冷たくなる気がした。
母に「おじいちゃん、元気かな」と言いかけて、やめた。言うと、本当になりそうだった。かわりに、葵はその晩、次の手紙を書いた。返事が来ていないのに、書いた。海の風は、そっちはもう冷たいですか。そう書いて、あとが続かなかった。
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六日目に、封筒が入っていた。
葵は、玄関先で封を切った。便箋を開く。祖父の字が、あった。ただ、いつもと少し違った。角ばった字の、線が、ところどころ細かく揺れていた。まっすぐ引いたはずの横棒が、小さく波打っている。
手が、思うように動かなくなってきた。そう書いてあった。だから返事が遅れた、すまん、と。それだけだった。あとはいつもと同じで、茄子のあとに大根を蒔いたことや、あの板はやっぱり難しいこと。文字の揺れについては、その一行きりだった。
葵は、便箋を陽の当たる廊下で、もう一度読んだ。揺れた字を、指でなぞってみる。なぞると、祖父がその字を書くのに、どれだけ時間をかけたのかが、なんとなく分かる気がした。一画ずつ。前より、ゆっくり。
直してあげたい、とは思わなかった。この字を、まっすぐに戻したいとは思わなかった。画面の板なら、押すだけで、きれいな字が相手に届く。海の向こうの言葉だって、待たずに訳して映してしまう。それでも祖父は、揺れる手で、鉛筆を握っていた。
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葵は、書きかけの手紙を破って、新しい便箋を出した。
海の風のことは、後回しにした。かわりに、球拾いにも意味があると部活の先輩に言われたこと。数学は、分からないところに印をつけて、一個ずつつぶしていること。祖父が返事に困りそうな、どうでもいいことを、いつもより多く書いた。手紙が長いほど、読むのに時間がかかる。時間がかかるほうが、いい気がした。
最後に、一行だけ足した。返事は、いつでもいいです。
封をして、切手を貼る。あて名を書く手が、少しだけ、祖父の字に似ている気がした。下の部分が、大きくなる。
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翌朝、葵はポストの前に立った。
封筒を投入口に差し入れて、また一拍、止まる。この手紙にも、消印が押される。どこかの機械が、今日の日付を、赤いインクで紙に刻む。何月何日に、ここを通りました、という印。すぐ消えてしまう文字ではなく、紙に残る、その日の印。
葵は、手を離した。かさ、と音がして、手紙は暗がりに落ちた。二日か、三日。祖父の手元に届くころ、こちらの茄子はもう終わっているだろう。
赤い箱に、朝の光が当たっていた。葵は、まだ少し冷たい指を、上着のポケットに入れた。
次にこの箱の前に立つのは、いつだろう。祖父の字は、次はどれくらい、揺れているだろう。葵は、それを見るのが、こわいような、待ち遠しいような、どちらともつかない気持ちで、学校のほうへ歩き出した。