AI活用の教科書

金魚

物語2026年7月14日4 分で読了執筆: 翔平

毎年ふたりで行った夏祭り。今年は、妹が友だちと行くと言った。

読み物兄妹

 玄関で、妹が鏡をのぞきこんでいた。

 浴衣の帯を、何度も結び直している。去年まで、その帯は母が結んでいた。今年は自分でやると言って、朝から動画を何度も見ていたらしい。

「兄ちゃん、後ろ変じゃない」

 湊は台所から出て、妹の背中を見た。羽根の形の結びが、少しだけ左に傾いている。まあ、ほどけはしないだろう。

「変じゃない」

「ほんとに」

「ほんとに」

 鈴が振り向いて、笑った。前歯の抜けていた顔を、もう思い出せない。いつのまにか、見上げる角度が浅くなっている。

 毎年、夏祭りは湊が連れていった。

 鈴がまだ小さかったころ、人ごみで手を離すと迷子になった。だから湊は、必ず手をつないだ。りんご飴の屋台の前で立ち止まり、輪投げで一度も景品を取れず、最後に金魚すくいをした。ポイがすぐ破れて、鈴が半べそをかくのを、店の人が見かねて一匹おまけにくれた。

 その金魚が、今も台所の水槽で泳いでいる。もう一匹は、去年の冬に死んだ。残った一匹が、朝の光の中をゆっくり回っている。

「今年さ」

 玄関で、鈴が下駄をつっかけながら言った。

「みんなと行っていい? 由芽ちゃんたちと、駅で待ち合わせなんだ」

 湊は、麦茶のグラスを持ったまま、少しだけ止まった。氷がひとつ、音を立てて沈んだ。

「いいよ」

 言ってから、思ったより早く言えたな、と自分で思った。

「迷子になるなよ」

「ならないよ、もう十三だよ」

 鈴は耳に、小さな粒をひとつ入れた。混雑を読んで、空いた道を教えてくれるやつだ。人の流れの薄いほうへ、そっと逸らしてくれる。湊が子どものころには、無かった。手をつなぐ代わりに、いまはそれが妹を人ごみから守る。

「帰り、暗くなるだろ。連絡しろよ」

「するする」

 サンダルの音が、玄関の外で軽く鳴った。門を出て、道を曲がるまで、鈴は一度も振り返らなかった。振り返らないくらいには、もう大丈夫なのだ。

 湊は玄関に立ったまま、麦茶を飲み干した。

 遠くで、太鼓の音がした。空はまだ、うっすら明るい。この時間に家にいるのは、ずいぶん久しぶりだった。手持ちぶさたで、水槽の前にしゃがむ。金魚が一匹、こちらを見て、また向こうへ泳いでいった。

 夜の九時を過ぎて、玄関の鍵が回った。

「ただいまっ」

 鈴の声が、少し上ずっていた。手に、小さなビニール袋を提げている。水がふくらんで、その中で、赤いものが揺れていた。

「見て。自分で取れた。一回も破らないで」

 袋の口を、両手で大事そうに持っている。金魚は一匹、袋の底で、ひれをたたんでじっとしていた。慣れない水に、まだ驚いているらしい。

「ポイ、コツあるんだって。由芽ちゃんが教えてくれた」

 湊は水槽の蓋を開けて、袋ごと水に浮かべた。水温を、ゆっくり合わせてやる。これは、昔から自分の役目だった。

「明日の朝、放してやる。今日はこのまま」

「うん」

 鈴は帯を解くのももどかしそうに、水槽をのぞきこんでいた。浴衣の裾から、下駄で擦れた足首がのぞいている。その横顔を、湊は少しのあいだ見ていた。

 みんなが寝たあと、湊はもう一度、台所に立った。

 水槽の中では、去年の金魚が、袋の中の新しい一匹の周りを、ゆっくり回っていた。ガラス越しに、様子を見ているように。袋の中の金魚は、まだ動かない。けれど、さっきより少しだけ、ひれが開いていた。

 明日、この水に放したら、二匹は同じ水の中を泳ぐのだろう。慣れるまで、どのくらいかかるだろうか。

 湊は蛍光灯を消した。水面に、常夜灯の小さな明かりだけが残った。赤い影がひとつ、ふいに動いて、水がかすかに揺れた。

 もう、手はつながなくていい。それでも、水を合わせてやることは、まだ、できる。

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