AI活用の教科書

焦げ目

物語2026年7月31日5 分で読了執筆: 翔平

夏の朝、父はいつも卵焼きを少しだけ焦がす。大会に向かう高校生の弁当箱の底で。

読み物親子

 朝の五時半に、台所で音がした。  卵を割る、こつ、という音。菜箸が茶碗の縁を叩く、かちかちという細かい音。律は布団の中で天井を見たまま、それを聞いていた。網戸の向こうで、まだ暗い空が少しずつ薄くなっていく。

 油のはねる音がして、においが二階まで上がってきた。少し、焦げている。父の卵焼きはいつも、端が茶色い。

 同じクラスの弁当は、たいてい隅々まで整っていた。  昼休み、机の上に並ぶ弁当箱を、律はなんとなく横目で見る。仕切りの中に、色が規則正しく並んでいる。卵焼きの断面は真四角で、どれも同じ厚みだった。調理台の画面に「運動部・夏・食欲」とでも打ち込めば、あとは機械が焼き上げる。角は測ったように直角で、焦げ目はどこにもない。

 律の弁当箱の中では、卵焼きの一つだけが、端で茶色くなっていた。厚みも、切るたびに違った。

 一年のはじめのころ、律はその弁当箱を机の陰に置いた。蓋を半分だけ開けて、手前に体を寄せて食べた。誰かに見られたわけでもないのに、そうしていた。

 父は、うちの調理台の自動の機能を使わなかった。  卵を割るのも、だしを混ぜるのも、手でやった。フライパンを傾けて、菜箸で巻いて、また傾ける。何度か焦がして、途中からは焦がさなくなって、それでもまた焦がした。母がいたころは母が焼いていたのだと、律は最近になって気づいた。父が焼くようになってから、まだ二年しか経っていない。

 「機械のやつ、使えば早いのに」  いつか、そう言ったことがある。台所で、父の背中に向かって。  父は少し黙ってから、フライパンを傾けた。  「まあ、これは俺のやり方だから」  それだけだった。振り向きもしなかった。菜箸の先で、卵の縁を寄せていた。

 県の大会の朝も、台所で音がした。  律はいつもより早く起きて、階段を下りた。父は流しの前に立って、弁当箱に白い飯を詰めていた。テーブルの上に、焼き上がったばかりの卵焼きが皿にのっている。端が、やっぱり茶色い。

 「起きたのか」  父が振り向いた。寝癖のついた頭のまま、律はうなずいた。  「今日、勝てるかわからん」  言ってから、なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。  父は卵焼きを切っていた。包丁の下で、厚みの違う切り身が並んでいく。  「勝つとか負けるとかは、俺にはわからんな」  父が言った。手は止まらなかった。  「弁当は、詰めた」

 その日、律のチームは二回戦で負けた。  最後の一本が、ネットにかかった。律の打ったボールではなかった。けれど、コートの白い線の上に立ったまま、律はしばらく動けなかった。夏の日差しが、砂の上に濃い影を落としていた。

 昼に食べた弁当のことを、なぜか思い出した。仲間と円になって、体育館の裏で食べた。もう机の陰に隠す歳でもなかった。卵焼きの、茶色い端のところを、律は最後に食べた。少し苦くて、甘かった。

 夜、家に帰って、律は空になった弁当箱を洗った。  自分で洗ったのは、たぶん初めてだった。ぬるい湯で、隅の米粒を指でこすり落とす。卵焼きの油が、スポンジになかなか馴染まなかった。洗い終えて、伏せて、布巾をかけた。それだけのことに、思ったより時間がかかった。

 父は居間で、テレビを小さな音でつけていた。負けたことは、まだ言っていない。言わなくても、たぶん知っている。台所に伏せられた弁当箱を、父は居間から見ていたのかもしれない。何も言わなかった。

 翌朝も、五時半に音がした。  こつ、と卵が割れる。かちかち、と菜箸が鳴る。油がはねて、においが上がってくる。少し、焦げている。

 律は布団を出て、階段を下りた。  台所で、父が背中を向けて立っていた。フライパンの中で、黄色いものが端から茶色くなりかけている。父はそれを、菜箸で寄せようとして、間に合っていなかった。

 律は、父の隣に立った。  「それ、焦げるよ」  「焦げるくらいが、うまいんだ」  父が言って、フライパンを傾けた。茶色い端が、くるりと内側に巻き込まれて、見えなくなった。

 菜箸を、父がこちらに差し出した。  律は、それを受け取った。持ち方がわからなくて、指の間で一度、菜箸が滑った。卵の縁が、また焦げていく。急いで寄せようとして、うまくいかない。

 窓の外が、少しずつ明るくなっていた。  いつか自分がこれを焼く朝が来るのだろうか、と律は思った。そのときも、端は茶色くなるのだろう。たぶん。

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