朝の五時半に、台所で音がした。 卵を割る、こつ、という音。菜箸が茶碗の縁を叩く、かちかちという細かい音。律は布団の中で天井を見たまま、それを聞いていた。網戸の向こうで、まだ暗い空が少しずつ薄くなっていく。
油のはねる音がして、においが二階まで上がってきた。少し、焦げている。父の卵焼きはいつも、端が茶色い。
*
同じクラスの弁当は、たいてい隅々まで整っていた。 昼休み、机の上に並ぶ弁当箱を、律はなんとなく横目で見る。仕切りの中に、色が規則正しく並んでいる。卵焼きの断面は真四角で、どれも同じ厚みだった。調理台の画面に「運動部・夏・食欲」とでも打ち込めば、あとは機械が焼き上げる。角は測ったように直角で、焦げ目はどこにもない。
律の弁当箱の中では、卵焼きの一つだけが、端で茶色くなっていた。厚みも、切るたびに違った。
一年のはじめのころ、律はその弁当箱を机の陰に置いた。蓋を半分だけ開けて、手前に体を寄せて食べた。誰かに見られたわけでもないのに、そうしていた。
*
父は、うちの調理台の自動の機能を使わなかった。 卵を割るのも、だしを混ぜるのも、手でやった。フライパンを傾けて、菜箸で巻いて、また傾ける。何度か焦がして、途中からは焦がさなくなって、それでもまた焦がした。母がいたころは母が焼いていたのだと、律は最近になって気づいた。父が焼くようになってから、まだ二年しか経っていない。
「機械のやつ、使えば早いのに」 いつか、そう言ったことがある。台所で、父の背中に向かって。 父は少し黙ってから、フライパンを傾けた。 「まあ、これは俺のやり方だから」 それだけだった。振り向きもしなかった。菜箸の先で、卵の縁を寄せていた。
*
県の大会の朝も、台所で音がした。 律はいつもより早く起きて、階段を下りた。父は流しの前に立って、弁当箱に白い飯を詰めていた。テーブルの上に、焼き上がったばかりの卵焼きが皿にのっている。端が、やっぱり茶色い。
「起きたのか」 父が振り向いた。寝癖のついた頭のまま、律はうなずいた。 「今日、勝てるかわからん」 言ってから、なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。 父は卵焼きを切っていた。包丁の下で、厚みの違う切り身が並んでいく。 「勝つとか負けるとかは、俺にはわからんな」 父が言った。手は止まらなかった。 「弁当は、詰めた」
*
その日、律のチームは二回戦で負けた。 最後の一本が、ネットにかかった。律の打ったボールではなかった。けれど、コートの白い線の上に立ったまま、律はしばらく動けなかった。夏の日差しが、砂の上に濃い影を落としていた。
昼に食べた弁当のことを、なぜか思い出した。仲間と円になって、体育館の裏で食べた。もう机の陰に隠す歳でもなかった。卵焼きの、茶色い端のところを、律は最後に食べた。少し苦くて、甘かった。
*
夜、家に帰って、律は空になった弁当箱を洗った。 自分で洗ったのは、たぶん初めてだった。ぬるい湯で、隅の米粒を指でこすり落とす。卵焼きの油が、スポンジになかなか馴染まなかった。洗い終えて、伏せて、布巾をかけた。それだけのことに、思ったより時間がかかった。
父は居間で、テレビを小さな音でつけていた。負けたことは、まだ言っていない。言わなくても、たぶん知っている。台所に伏せられた弁当箱を、父は居間から見ていたのかもしれない。何も言わなかった。
*
翌朝も、五時半に音がした。 こつ、と卵が割れる。かちかち、と菜箸が鳴る。油がはねて、においが上がってくる。少し、焦げている。
律は布団を出て、階段を下りた。 台所で、父が背中を向けて立っていた。フライパンの中で、黄色いものが端から茶色くなりかけている。父はそれを、菜箸で寄せようとして、間に合っていなかった。
律は、父の隣に立った。 「それ、焦げるよ」 「焦げるくらいが、うまいんだ」 父が言って、フライパンを傾けた。茶色い端が、くるりと内側に巻き込まれて、見えなくなった。
菜箸を、父がこちらに差し出した。 律は、それを受け取った。持ち方がわからなくて、指の間で一度、菜箸が滑った。卵の縁が、また焦げていく。急いで寄せようとして、うまくいかない。
窓の外が、少しずつ明るくなっていた。 いつか自分がこれを焼く朝が来るのだろうか、と律は思った。そのときも、端は茶色くなるのだろう。たぶん。