玄関の戸を開けると、昼間ためこんだ熱が先にあふれてきた。誰も住まなくなって二か月、家は息を止めたようなにおいがした。
健一は靴を脱いだ。上がり框に、弟の靴がもう揃えて置いてある。約束の時間より、また弟のほうが早い。
「兄さん、奥にいる」
声だけが、廊下の先から届いた。
*
父の家を片づけるのに、業者を入れることになっていた。台車に載る平たい端末が、部屋のものを順に写して、値のつくものとつかないものを仕分けていく。壊れていないか、まだ売れるか、そういうことを、迷いなく数えていくのだという。
その下見に、兄弟で立ち会う。それだけのはずだった。
健一が居間に入ると、弘はもう畳に座って、簞笥の抽斗を開けていた。七つ下の弟の後ろ姿は、こんなに肩が厚かっただろうか。最後にまともに話したのがいつだったか、すぐには思い出せない。父の葬式のときも、二人はほとんど口をきかなかった。
「勝手に開けて、いいのか」
「どうせ、ぜんぶ写されるんだ。先に見ておきたくて」
弘は振り向かずに言った。抽斗の中には、輪ゴムでまとめた領収書の束と、錆びた裁ち鋏と、封も切っていない年賀状の束があった。父はものを捨てられない人だった。母が生きているうちは、母がそれを黙って捨てていた。母が先に逝って、家はゆっくりと、もので詰まっていった。
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汗が背中を伝った。健一は柱の陰の扇風機に気づいて、そちらへ手を伸ばした。羽根の緑色が、日に灼けて白っぽく褪せている。子どものころからある、首の長い扇風機だった。
スイッチのつまみを、右へ回す。ためらうような間があって、羽根が回りはじめた。かたかた、と軸のあたりが小さく鳴る。生あたたかい風が、埃のにおいと一緒に頬に来た。
「まだ動くんだな、それ」
弘が、はじめてこちらを向いた。
「動くよ。ずっと使ってた」
健一はもうひとつのつまみを押した。首振りのボタンだった。ぎ、と関節が引っかかるような音を立てて、扇風機が首をめぐらしはじめる。右へ、ゆっくり。健一のいるほうへ風が来て、それから逃げるように、弘のほうへ流れていく。
二人は、しばらく黙っていた。風が来て、去る。来て、去る。首の付け根のかたかたという音だけが、部屋の時間を刻んでいた。
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弘が、抽斗の奥から一枚の紙を引っぱり出した。折り目のついた、方眼の紙だった。
「これ」
差し出された紙を、健一は受け取った。子どもの字で、下手な設計図のようなものが描いてある。四角い箱と、そこから伸びる線と、〈けんいち〉〈ひろし〉という名前。何かの秘密基地の図面だった。裏庭の物置を、二人で城にしようとした夏があった。健一が線を引いて、弘がそれをはみ出して塗った。
「覚えてないよ、こんなの」
言いながら、指が紙の折り目をなぞっていた。折り目のところだけ、紙が柔らかくすり切れている。何度も開いて、しまって、また開いた紙だった。
「父さん、とっといたんだ」弘が言った。「捨てられない人だから、って、俺はずっと馬鹿にしてた」
風が、また弘のほうへ流れていった。弘は目を上げなかった。
*
玄関で、業者の端末の到着を知らせる音が鳴った。台車の低い駆動音が、廊下を近づいてくる。平たい画面がすっと持ち上がって、部屋のものを写しはじめた。領収書の束、簞笥、褪せた扇風機。ひとつずつ、四角い枠が当てられて、数字が添えられていく。多くのものに、ゼロが並んだ。値がつかない、という意味だった。
健一の手の中の方眼紙にも、枠が当たった。
少しの間があって、画面は次のものへ移った。子どもの落書きに、値のつけようがなかったのだろう。ゼロさえ、つかなかった。ただ通り過ぎた。
「――こういうのは、わからないんだな」
弘がぽつりと言った。責めるふうでもなく、ただ気づいたというふうだった。
「わからないだろうな」健一はうなずいた。「値のつくものを数えてるんだから」
二人は顔を見合わせた。ずいぶん、久しぶりだった。弘の目尻に、父に似た皺があった。
*
結局、その日は何も捨てなかった。仕分けの下見だけのはずが、二人は畳に並んで座って、抽斗のものをひとつずつ手に取っては、これは何だ、これは誰の、と話していた。話すことは、まだいくらでも残っていた。話さずにきた年月のぶんだけ、残っていた。
扇風機は、首を振りつづけていた。右へ、左へ。健一に風を届けて、それから弘に届ける。かたかた、と鳴りながら、律儀に、二人のあいだを行き来した。誰に多くやるでもなく、順番に。
方眼紙を、健一は抽斗には戻さなかった。折り目にそって、もう一度きれいに畳んで、シャツの胸ポケットに入れた。
「持って帰るのか」
「ああ」
弘は何も言わずに、少しだけ笑ったようだった。
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日が傾いて、部屋の色が濃くなった。健一は立ち上がって、扇風機のスイッチに手をかけた。つまみを戻すと、羽根がゆっくり力を失っていく。首振りが、右を向いたところで止まった。ちょうど、弘のいるほうを向いて。
風の消えた部屋に、蟬の声が入ってきた。
このつぎ、この家に来るのはいつだろう。来るのだろうか。健一にはわからなかった。ただ、止まった扇風機の首が向いているほうに、弟がまだ座っていて、方眼紙のことをもう一度たずねたそうにしているのが、わかった。