残暑が、しつこかった。日が落ちても、アスファルトはまだ夕方の熱を吐いている。
沙耶は台所の窓を開けた。入ってくる風は、生ぬるい。夫は、まだ帰らない。今日も遅くなる、と昼に短い文字が届いただけだった。
この家に住んで、半年になる。義母と二人きりの夜は、数えるほどしかなかった。夫がいるときは、会話は夫を経由して流れた。いないと、家の音が急に大きくなる。冷蔵庫の低いうなり。廊下の時計。義母がテレビを消したあとの、しんとした間。
「お茶、いれましょうか」
言ってから、声が硬かったと思う。義母は、座卓の向こうで顔を上げた。
「ああ。……もらおうかね」
湯を沸かすあいだ、背中に義母の気配があった。責められているわけではない。それは分かっている。ただ、どう振る舞えば正解なのかが、いつまでも分からなかった。
*
麦茶を出すと、義母は両手で湯のみを包んだ。冷房の効いた部屋で、あたたかいお茶を飲む人だった。
「暑いのに、あったかいの飲むんですね」
「胃が冷えるとね、眠れないから」
そう、と沙耶は思った。知らなかった。半年住んで、まだそんなことも知らない。
壁の隅で、小さな灯がまたたいた。家じゅうの様子を見ているという、あの機械だった。人がいない部屋の灯を消し、窓の閉め忘れを教える。義母の脈や眠りの深さも、どこかで数えているらしい。夫が「これで安心だから」と据えつけたものだ。義母は、それに一度も話しかけたことがなかった。
「あの子は」義母が言った。「昔から、帰りが遅いと連絡もよこさなくてね」
「今日は、来ましたよ。昼に」
「へえ」
義母は少し笑ったようだった。笑うと、目のまわりの皺が深くなる。夫の笑い方に、少し似ていた。
*
麦茶がなくなるころ、義母が立ち上がった。
「水、やってくるわ」
ベランダの朝顔だった。夕方に自動で霧をやる鉢だと、夫が言っていた気がする。それでも義母は、毎晩じょうろで水をやりに出る。
沙耶も、なんとなく後を追った。
夜のベランダは、昼の熱がまだこもっていた。あんどん仕立ての支柱に、朝顔の蔓が幾重にも巻きついている。葉のあいだに、翌朝ひらくつぼみが、ねじれたまま立っていた。
「きれいですね」
言いながら、沙耶は気づいた。一本だけ、支柱から外れた蔓が、物干し竿のほうへ長く伸びている。輪を描くように竿に巻きつき、宙で揺れていた。
正しい形に戻したほうがいい。そう思った。沙耶は、その蔓に指をかけた。竿からほどいて、支柱のほうへ導こうとした。
蔓の付け根が、みしり、と鳴った。
「あ」
思ったより硬く、根元のあたりが白く裂けかけた。手が止まる。折れる。折ってしまう。顔が熱くなった。
「いいのよ」
背中で、義母の声がした。
「そっちが、よかったんでしょ」
沙耶は指を離した。蔓は、少し揺れて、また竿のほうへ戻っていった。先のほうで、細い巻きひげが、なにもない夜の空気をさぐるように、くるりと丸まっている。
*
「朝顔ってね」義母がじょうろを傾けた。「巻きひげが、さきに触ったものに巻きつくの。支柱を立ててやっても、気に入らなきゃ、勝手にとなりの何かへ行っちゃう」
水が、鉢の土に吸われていく音がした。
「無理に戻すとね、折れる。折れたら、そこで終わり。だから、伸びたいほうに、伸ばしておくのよ」
沙耶は、竿に巻きついた蔓を見た。支柱の朝顔とは、別の高さで、別の方向を向いている。それでも、根は同じ鉢だった。
「……この家に」
言いかけて、やめた。うまく続かなかった。
義母は、こちらを見なかった。じょうろの残りを、根元にそっと空けた。
「あんたも、好きにしていいのよ。台所の物の置き場も、ね。私のやり方に、合わせなくて」
沙耶は、うなずけなかった。うなずくかわりに、竿の蔓の巻きひげに、そっと指先で触れた。やわらかく、少しだけ湿っていた。生きているものの、たしかな張りがあった。
*
部屋にもどると、壁の隅の灯が、また静かにまたたいた。義母の帰りを、数えているのだろうか。それとも、ただ光っているだけか。
義母は、もう一度お茶をいれた。今度は、沙耶の分も。
「あの子が帰るまで、起きてるの?」
「……はい」
「わたしは、先に休むわ。年寄りは、待つのが下手でね」
廊下を行く足音が、遠ざかった。ふすまの閉まる音。それから、家がまた静かになった。
沙耶は、湯のみを両手で包んだ。あたたかかった。胃が冷えると眠れない、と義母は言っていた。真似をしたわけではない。ただ、そうしてみたかった。
窓の外で、朝顔の蔓が、夜風にかすかに鳴っていた。支柱のものと、竿のものと、別々の方向で。
明日の朝、どんな色で咲くのだろう。竿のほうのつぼみは、まだねじれたまま、東を向いていた。
沙耶は、その向きを、直さなかった。