AI活用の教科書

巻きひげ

物語2026年8月28日5 分で読了執筆: 翔平

夫の帰りが遅い夜、同居して半年の嫁と義母が二人で留守番をする。ベランダの朝顔の蔓が、支柱ではないほうへ伸びていた。

読み物近未来家族

残暑が、しつこかった。日が落ちても、アスファルトはまだ夕方の熱を吐いている。

沙耶は台所の窓を開けた。入ってくる風は、生ぬるい。夫は、まだ帰らない。今日も遅くなる、と昼に短い文字が届いただけだった。

この家に住んで、半年になる。義母と二人きりの夜は、数えるほどしかなかった。夫がいるときは、会話は夫を経由して流れた。いないと、家の音が急に大きくなる。冷蔵庫の低いうなり。廊下の時計。義母がテレビを消したあとの、しんとした間。

「お茶、いれましょうか」

言ってから、声が硬かったと思う。義母は、座卓の向こうで顔を上げた。

「ああ。……もらおうかね」

湯を沸かすあいだ、背中に義母の気配があった。責められているわけではない。それは分かっている。ただ、どう振る舞えば正解なのかが、いつまでも分からなかった。

麦茶を出すと、義母は両手で湯のみを包んだ。冷房の効いた部屋で、あたたかいお茶を飲む人だった。

「暑いのに、あったかいの飲むんですね」

「胃が冷えるとね、眠れないから」

そう、と沙耶は思った。知らなかった。半年住んで、まだそんなことも知らない。

壁の隅で、小さな灯がまたたいた。家じゅうの様子を見ているという、あの機械だった。人がいない部屋の灯を消し、窓の閉め忘れを教える。義母の脈や眠りの深さも、どこかで数えているらしい。夫が「これで安心だから」と据えつけたものだ。義母は、それに一度も話しかけたことがなかった。

「あの子は」義母が言った。「昔から、帰りが遅いと連絡もよこさなくてね」

「今日は、来ましたよ。昼に」

「へえ」

義母は少し笑ったようだった。笑うと、目のまわりの皺が深くなる。夫の笑い方に、少し似ていた。

麦茶がなくなるころ、義母が立ち上がった。

「水、やってくるわ」

ベランダの朝顔だった。夕方に自動で霧をやる鉢だと、夫が言っていた気がする。それでも義母は、毎晩じょうろで水をやりに出る。

沙耶も、なんとなく後を追った。

夜のベランダは、昼の熱がまだこもっていた。あんどん仕立ての支柱に、朝顔の蔓が幾重にも巻きついている。葉のあいだに、翌朝ひらくつぼみが、ねじれたまま立っていた。

「きれいですね」

言いながら、沙耶は気づいた。一本だけ、支柱から外れた蔓が、物干し竿のほうへ長く伸びている。輪を描くように竿に巻きつき、宙で揺れていた。

正しい形に戻したほうがいい。そう思った。沙耶は、その蔓に指をかけた。竿からほどいて、支柱のほうへ導こうとした。

蔓の付け根が、みしり、と鳴った。

「あ」

思ったより硬く、根元のあたりが白く裂けかけた。手が止まる。折れる。折ってしまう。顔が熱くなった。

「いいのよ」

背中で、義母の声がした。

「そっちが、よかったんでしょ」

沙耶は指を離した。蔓は、少し揺れて、また竿のほうへ戻っていった。先のほうで、細い巻きひげが、なにもない夜の空気をさぐるように、くるりと丸まっている。

「朝顔ってね」義母がじょうろを傾けた。「巻きひげが、さきに触ったものに巻きつくの。支柱を立ててやっても、気に入らなきゃ、勝手にとなりの何かへ行っちゃう」

水が、鉢の土に吸われていく音がした。

「無理に戻すとね、折れる。折れたら、そこで終わり。だから、伸びたいほうに、伸ばしておくのよ」

沙耶は、竿に巻きついた蔓を見た。支柱の朝顔とは、別の高さで、別の方向を向いている。それでも、根は同じ鉢だった。

「……この家に」

言いかけて、やめた。うまく続かなかった。

義母は、こちらを見なかった。じょうろの残りを、根元にそっと空けた。

「あんたも、好きにしていいのよ。台所の物の置き場も、ね。私のやり方に、合わせなくて」

沙耶は、うなずけなかった。うなずくかわりに、竿の蔓の巻きひげに、そっと指先で触れた。やわらかく、少しだけ湿っていた。生きているものの、たしかな張りがあった。

部屋にもどると、壁の隅の灯が、また静かにまたたいた。義母の帰りを、数えているのだろうか。それとも、ただ光っているだけか。

義母は、もう一度お茶をいれた。今度は、沙耶の分も。

「あの子が帰るまで、起きてるの?」

「……はい」

「わたしは、先に休むわ。年寄りは、待つのが下手でね」

廊下を行く足音が、遠ざかった。ふすまの閉まる音。それから、家がまた静かになった。

沙耶は、湯のみを両手で包んだ。あたたかかった。胃が冷えると眠れない、と義母は言っていた。真似をしたわけではない。ただ、そうしてみたかった。

窓の外で、朝顔の蔓が、夜風にかすかに鳴っていた。支柱のものと、竿のものと、別々の方向で。

明日の朝、どんな色で咲くのだろう。竿のほうのつぼみは、まだねじれたまま、東を向いていた。

沙耶は、その向きを、直さなかった。

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