盤の木目は、ところどころ黒くすり減っている。四十年、同じ盤だ。
幸吉は駒を並べながら、縁側の先の庭を見た。百日紅がまだ咲いている。残暑の光が濡れ縁の板を焼いて、足の裏が熱かった。
「遅いぞ」
「聞こえとる」
徳造が廊下を来る。片手で手すりをつかみ、もう片手に杖。座るまでに、ずいぶん時間がかかるようになった。腰を下ろすとき、口から短く息が漏れる。それを聞くのも、もう長い。
盤のわきに、薄い板が立てかけてある。徳造の孫が置いていったものだ。指で触れると、今の局面での最善手とやらが光って出る。青い線が、駒の進む先をすっと示す。
「そいつは、今日も要らんな」
徳造が言う。幸吉は板をうつ伏せに倒した。光が消える。庭で、蝉が鳴きだした。
*
先手は徳造だった。角の頭に歩を突く。幸吉は飛車先を伸ばす。手の運びに、言葉はない。駒を打つ音と、風鈴の、たまの音だけがある。
四十年のあいだに、二人は何局指したのか、数えたことがない。勝ち負けも、覚えていない。会社の帰りに始めて、片方が退職しても続いて、連れ合いを送っても続いた。盤をはさむと、話すことは何もなかった。それでよかった。
中盤に入って、徳造の手が止まった。桂を持ち上げようとして、指が震えた。駒は、置くつもりだった場所から一つずれた升に落ちた。
盤の下で、板が短く鳴った。倒してあるのに、まちがいを見つけたらしい。
徳造は、しばらくその桂を見ていた。それから、幸吉のほうを見ずに言った。
「待った」
「ああ」
幸吉はうなずいた。徳造は桂を戻し、正しい升に置き直す。それだけのことだ。
昔から、そうだった。徳造は詰めが甘い。ここぞという所で、指がすべる。そのたびに待ったをかける。幸吉は一度も断らなかった。断る理由を、考えたこともなかった。
板なら、許さないのだろう。まちがいはまちがいとして、青い線を引く。正しい手が、いつでも一つに決まっている。
幸吉は、自分の歩を静かに進めた。
*
「来週から」
不意に、徳造が言った。盤を見たまま。
「あそこは、飯がうまいらしい」
幸吉は、王を囲う金に手をかけていた。その手を、置いた。
「そうか」
「息子がな、心配して」
「そうか」
ほかに言うことが、見つからなかった。徳造の家は、坂の上にある。あの坂を、この足でもう上り下りするなと、息子は言うのだろう。正しい。何もかも、正しい。
風鈴が鳴った。庭の百日紅が、ひとつ、花を落とした。
盤の上は、いつのまにか終わりに近づいていた。徳造の王は、逃げ場を狭められている。あと二手か、三手。幸吉には見えた。たぶん、徳造にも見えている。
幸吉は、自分のさっき進めた歩を、指でつまんだ。そして、一つ手前の升へ戻した。
「……待った」
徳造が顔を上げた。
「お前が、待ったか」
「指がすべった」
すべってなどいない。徳造にも、それは分かっている。分かっていて、何も言わなかった。ただ、少し笑った。目じりの皺が、深くなった。
「しかたのないやつだ」
「お互いにな」
盤の上の勝負は、宙ぶらりんのまま止まった。決着は、つかなかった。つけなかった。
*
徳造が帰ったあと、幸吉は縁側に一人で残った。日が傾いて、庭の熱がゆっくり引いていく。
盤は、そのままにしてある。駒を、片づける気になれなかった。徳造の王が、逃げ場のない場所で、まだ立っている。幸吉の歩が、一つ手前で止まっている。
続きは、いつでもいい。そう思うことにした。次に会ったとき——月に一度でも、二度でも、あの坂の下まで誰かが車で連れてくれば——この続きから、また指せばいい。終わっていない勝負が、ここに一つ、残っている。
倒したままの板に、指で触れてみた。青い線が、また光って出る。この局面での、正しい手を示している。幸吉には、それがどこか、遠いことのように見えた。
もう一度、板をうつ伏せに倒した。
風鈴が鳴った。誰もいない盤に向かって、幸吉は小さく言った。
「待った」
戻すものは、もう何もなかった。それでも、そう言ってみたかった。