予定日を三日過ぎても、まだ何も始まらなかった。
千夏は暗い天井を見上げていた。カーテンの隙間が、少しずつ灰色になっていく。夜が終わろうとしている。隣で夫の寝息が規則正しく続いていた。その音に合わせて呼吸すると、自分のお腹の重さが余計にはっきりした。
手首の内側で、細い帯が静かに光っていた。眠っている間もずっと、心拍を、張りを、体温を、数えている。数字はいつでも呼び出せる。何かあれば、揺れて教えてくれる。だから安心して、と産科の人は言った。実際、安心だった。ここまでの十月、大きな不安はほとんどなかった。帯はよく当たった。つわりが軽くなる週も、胎動が強くなる日も、先に知らせてくれた。
けれど今、その静けさが少しだけこわい。まだ始まらない、と帯も言っていない。始まる、とも言っていない。
*
トイレに立って、また横になる。それを何度か繰り返した。
窓の外がクリーム色に変わっていた。夏の朝は早い。遠くで鳥が一羽、二羽と鳴き始める。空気に湿った土のにおいが混じっていた。ゆうべ、少しだけ雨が降ったらしい。
お腹の底の方で、何かがゆっくりと寄せてきた。
痛みというほどではない。波のように、遠くから来て、ふくらんで、引いていく。息を止めて、それをたどった。指を下腹に添える。皮膚の下で、確かに、固くなって、また緩んだ。
帯は光らなかった。まだ、教えるほどではないと判断したのだろう。あるいは、ただの前触れなのかもしれない。
千夏は身じろぎしなかった。夫を起こそうか、と一瞬思って、やめた。数字を呼び出そうか、とも思って、やめた。
もう少し、これを、自分のものにしておきたかった。
*
波は、思い出したようにやって来た。
十分か、十五分か。間隔はまだばらばらだった。ちゃんと計れば、帯が計ってくれれば、正確な数字が出る。何分おき、何秒間。医師が知りたがる数字。自分でも知りたい数字。
それでも千夏は、数えなかった。
代わりに、波が来るたびに、窓の明るさを見た。一度目より、二度目の空が明るい。三度目には、部屋の隅の椅子の輪郭が見えるようになっていた。夫のシャツが背もたれに掛かっている。そのしわの一本一本まで。
痛みが引くと、世界がやけに静かになる。自分の内側だけが、ゆっくりと満ちていくのがわかった。潮が、目に見えない線をひたひたと越えていくように。誰かに教わったわけではないのに、体がそれを知っていた。今まで一度も使ったことのない部分が、はじめて動き出していた。
こわくない、と気づいて、少し驚いた。
*
四度目の波が、さっきより深く来た。
思わず声がもれた。低い、自分でも知らない声だった。息を吐いて、シーツを握る。手のひらに汗がにじんでいた。
その時、手首の帯が、やわらかく震えた。
見なくてもわかる。始まっています、と告げているのだ。もうすぐ、部屋の明かりが自然に灯り、夫のところにも知らせがいくだろう。段取りが動き出す。持ち物の確認、連絡、車。全部、抜かりなく。そういうふうに、できている。
千夏は帯を見なかった。
もう知っていた。帯より先に、自分が知っていた。誰より早く、この体が。
半日、いや、ほんの少しだけ。機械より、先に。それがどれほどのことか、うまく言葉にできない。ただ、その少しの間が、自分にとって大事なものだったことは、わかる。
*
夫が寝返りを打って、目を開けた。
「どうした」
「たぶん」と千夏は言った。「たぶん、今日」
夫が飛び起きる気配がした。慌てて何かを探す音。落ち着いて、と言おうとして、笑ってしまった。次の波が来て、笑いはすぐに息に変わったけれど。
窓が白い。もう朝だった。カーテンを引くと、洗ったばかりの空が一面に広がっていた。低いところに、雨あがりの光がたまっている。
お腹に手を当てる。固くなって、緩んで、また固くなる。
満ちていく。ゆっくりと、けれど確かに、いちばん高いところへ向かって。
その先で、何が始まるのか。
指の下で、小さく、何かが動いた気がした。