姉から甥を預かったのは、その日が初めてだった。
病院の検査が長引くから夕方まで、と電話の声は早口で、香に断る間もなかった。玄関に立った悠斗は、姉に似た切れ長の目でこちらを見上げ、こんにちは、と教科書のように言った。九つにしては言葉が硬い。香は、久しぶり、大きくなったね、としか返せなかった。子どものいない三十四歳の一日が、急に見知らぬ形に変わった。
昼を食べさせ、テレビを見せ、それでもまだ三時間ある。香は思いつきで、川に行こうか、と言った。悠斗は少し考えてから、行ってもいいよ、と答えた。許可を出すような言い方だった。
*
自動で走る車が、川沿いの駐車場にすっと停まった。降りると、夏の終わりの匂いがした。水は少なく、白い石が河原に広がっている。蝉の声がもう遠い。
悠斗は水際にしゃがみ、腕の見守りバンドをちらと見た。緑に光っている。異常なし、という色。姉がつけさせているのだろう。香は自分の子どもの頃、そんなものはなかった、と思いかけて、やめた。比べても仕方ない。
「石、投げたことある」
香が聞くと、悠斗は首を振った。香は平たい石を拾い、腰を落として横に払った。石は水面を二度跳ねて、沈んだ。悠斗の目が、初めて丸くなった。
「なにそれ」
「水切り。うまくいくと、もっと跳ねる」
悠斗はしゃがんだまま、バンドの画面を指でなぞった。しばらくして顔を上げ、真面目な声で言った。
「角度は、水面に対して二十度がいいって。回転をかけて、低く投げる」
画面の向こうが教えたのだろう。正しいのだと思う。香は、そうなんだ、と言った。自分は角度なんて考えたことがない。
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悠斗は言われたとおりにやろうとした。石を指ではさみ、腕を水平にし、二十度、と口の中で言いながら投げる。石はぽちゃりと落ちて、跳ねなかった。もう一度。落ちる。三度目、四度目。悠斗の眉が寄っていく。
「変だな」
小さな声だった。悠斗はまたバンドを見た。川面に、うっすらと白い線が浮かんで見える。投げるべき軌道が描かれているらしい。悠斗はその線に手を合わせようとして、また外した。石が力なく沈む。
香は隣にしゃがんだ。教えるつもりはなかった。自分だってうまくないのだ。ただ、悠斗の握り方を見て、力入りすぎ、と思った。
「そんなに強く持たなくていいよ」
「でも、回転かけないと」
「うん。でも、こう」
香は悠斗の手から石を受け取った。指の腹に石の冷たさが乗る。どう投げているのか、自分でも言葉にできない。ただ手が覚えている。小学生の頃、父とこの川に来た。父も理屈は言わなかった。ほら、とだけ言って投げた。香はそれを何十回も見て、いつのまにか跳ねるようになった。
香は手首を軽く返して投げた。石は三度跳ねた。悠斗が、あ、と言った。
「今の、何度だった」
「わかんない」
「わかんないの」
「うん。測ってないもん」
悠斗は、信じられない、という顔をした。数字のない世界を初めて見た子どもの顔だった。香は笑った。少し、いじわるな気持ちもあった。
*
石を拾っては投げ、拾っては投げた。悠斗はバンドの線をだんだん見なくなった。かわりに香の手を見ていた。持ち方、腰の落とし方、腕の払い。香が投げるたび、悠斗はその形をなぞるように自分の腕を動かした。言葉ではなく、形で覚えようとしていた。
日が傾いて、水の色が変わってきた。悠斗の投げた石が、初めて一度、跳ねた。ぱしゃ、と小さな音がして、水の輪が広がった。悠斗は動かなかった。それから、こちらを振り返った。口を結んだまま、目だけが笑っていた。
「跳ねた」
「跳ねたね」
香は言った。それ以上、何も言わなかった。うまいとも、やっとだねとも言わなかった。言えば、この子はまた正しさを探しに行ってしまう気がした。
悠斗はもう一度投げた。今度は二度跳ねた。三度目を投げようと石を探す背中が、来たときより少しだけほどけて見えた。バンドは相変わらず緑に光っている。何も測っていない今のことを、あれは記録しないのだろう。それでいい、と香は思った。
*
迎えの時間が近づいた。悠斗は最後にひとつ、と言って、河原をしばらく歩いた。手のひらにのせて選んでいる。いちばん平たいのを探しているらしい。香が父から聞いたわけでもないその選び方を、この子はもう知っていた。
悠斗は腰を落とし、力を抜いて、手首を返した。石が離れる。一、二、三——四度、跳ねた。香が今日いちばん、跳んだ。
悠斗は自分の手をじっと見た。それから、こっちを見た。何か言いたそうで、言わなかった。香も言わなかった。ただ、二人で水の輪が消えていくのを見ていた。
車に戻る道で、悠斗がぽつりと言った。
「ばんど、外していい」
香は少し驚いて、お母さんに聞いてからね、と答えた。悠斗はうなずいた。それでよかったらしい。外したいと思ったこと自体が、たぶん、今日のいちばんのできごとだった。
川の匂いが、まだ手に残っている。次にこの子と会うのはいつだろう。そのとき、水切りのことを覚えているだろうか。覚えていなくてもいい。手が覚えていれば。
夕日が水面で跳ねて、川下へ流れていった。何度、跳ねたのかは、数えなかった。