消灯のアナウンスが、女の声で静かに流れた。ハンドルのないバスは、誰の手も借りずに高速へ入っていく。窓の外を、街の灯りがほどけて後ろへ流れた。
真尋は窓に額を寄せた。二十三歳の夏の終わり。実家を出て、明日から知らない街で働く。段ボールは先に送った。手元には、リュックひとつ。
通路をはさんだ隣の席に、年老いた男が座っていた。乗り込むときに一度だけ目が合って、会釈をした。それきりだった。
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座席の肘に、小さな緑の光がともっている。体温や姿勢を見ているらしいランプだ。真尋のぶんも、男のぶんも、同じ間隔で穏やかに息をしていた。
冷房が効きすぎていた。薄手のカーディガンでは足りず、真尋は膝を抱えた。備え付けの毛布は、頭上の棚にひとつだけ。手を伸ばしかけて、やめた。隣の人が使うかもしれない。
バスが小さく揺れた。
闇の中で、真尋の目の奥が熱くなった。理由は、うまく言えない。母は玄関で、いつもの声で「気をつけて」と言った。振り返らずに歩いた。それだけのことが、いま、胸の底で重くなっている。
声を殺した。肩だけが、小さく上下した。
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衣擦れの音がした。
棚から下ろされた毛布が、真尋の膝の上に、そっと落ちてきた。軽い。まだ誰の体温も移っていない布の、乾いた匂いがした。
隣を見た。男は、何も見ていないふりをして、窓の方を向いていた。皺の深い横顔が、通り過ぎる灯りに一度だけ照らされて、また暗くなった。
「……ありがとう、ございます」
声が掠れた。男は、ん、とも言わずに、ただ少しだけうなずいた。それから、ゆっくりと目を閉じた。
真尋は毛布を広げた。肩まで引き上げると、冷えていた指の先に、じわりと熱が戻ってきた。
*
どのくらい眠ったのか、分からない。
バスが速度を落とす気配で、真尋は目を覚ました。窓の外が、うっすらと白んでいる。夜が、端からほどけはじめていた。
停車のアナウンス。男が、静かに立ち上がった。網棚から古い鞄をひとつ、下ろす。真尋は身を起こして、毛布を返そうとした。
「あの」
男は振り向いて、片手を小さく上げた。いい、というふうに。皺の中の目が、ほんの少しだけやわらいだ。
「若い頃、私も」
そこで言葉が途切れた。続きは、言わなかった。男は通路をゆっくり歩いて、扉の方へ消えていった。
*
バスが、また走り出す。
真尋は膝の毛布を見た。名前も、行き先も、聞かなかった。二度と会うことはないのだろう。
窓の外で、街のかたちが少しずつ立ち上がってくる。知らない街の、知らない屋根の連なり。そのどれかの下で、今日から自分は暮らす。
肘の緑の光が、静かに息をしている。男の座っていた席の光は、もう消えていた。
真尋は、毛布をたたんだ。膝の上で、端をそろえて、きちんと四角く。乾いた匂いに、いつのまにか自分の体温が移っていた。
次に冷えている誰かが、これを使えばいい。
そう思って、棚には戻さず、膝に置いたままにした。降りる駅は、まだ少し、先だった。