AI活用の教科書

麦茶

物語2026年8月13日5 分で読了執筆: 翔平

盆の入り、久しぶりに帰った実家。冷えた麦茶のポットが、言葉にならないものを映していた。

読み物お盆家族兄弟

 盆の入りの朝、健二は駅前でレンタカーを借りるのをやめて、路線バスに乗った。二時間に三本しかない便は、記憶より座席の布が新しくなっていた。窓の外を、まだ青い田が流れていく。

 実家の玄関は鍵が開いていた。この家は昔からそうだ。

「ただいま」

 声が、思ったより小さく出た。奥から返事はなく、代わりに台所のほうで低い電子音が一度だけ鳴って、すぐにやんだ。壁の隅に、手のひらより小さな白い機械が据えてある。時々、薄い緑の光がまばたきをする。稔が付けたのだろう。母の様子を、遠くにいてもうかがえるようにと。

「兄さん、早かったね」

 畑のほうから稔が戻ってきた。首にかけたタオルが、汗で色を変えている。健二より三つ下の弟は、いつのまにか父に似てきた。

「母さんは」

「昼寝。最近、朝が早いぶん、昼に寝る」

 健二は上がりかまちで靴を脱ぎながら、廊下の先を見た。手すりが増えている。トイレの前にも、風呂場の前にも。前に帰ったのはいつだったか、うまく思い出せない。

 台所に入ると、冷蔵庫が低くうなっていた。開けると、いちばん下の段に、大きなガラスのポットが冷えていた。麦茶だ。琥珀色が、庫内の光にすこし濁って見える。子どものころ、部活から帰ってこれをコップに二杯飲んだ。母がいつも、朝のうちに大やかんで沸かして、粗熱をとってから入れていた。

 コップを探して、健二は三つ戸棚を開けた。どこに何があるのか、この家のことなのに、もう分からない。

 母は夕方に起きてきた。健二の顔を見て、しばらく黙って、それから笑った。

「帰ってたの。言ってくれれば」

「言ったよ。電話で」

「そうだったかね」

 母は椅子に座るのに、少し時間をかけた。稔がそばに立って、手は出さず、ただ椅子の背に指を添えていた。出しすぎず、遠すぎず。何度もそうしてきた手の位置だと、健二には分かった。

 夕飯は稔が作った。健二は皿を並べるくらいしかできることがなく、それも「そこじゃない、こっち」と母に直された。食卓の端で、白い機械がまた一度、静かに鳴った。母が薬を飲む時間らしい。稔が水を注いだコップを、当たり前の速さで母の前に置いた。

 健二は、自分がこの食卓で、いちばん何もできない者だと知った。

 夜、母が寝てから、二人は縁側に出た。蚊取り線香の煙が、まっすぐ上って、天井の手前で崩れる。

「悪いな」と健二は言った。「全部、お前に」

 稔はすぐには答えなかった。庭の暗がりを見て、それから、なんでもないことのように言った。

「兄さんが送ってくれる金で、手すりも風呂の椅子も付けられた。あの見守りのやつも」

「そういうことじゃなくて」

「分かってる」

 稔は立ち上がって、台所に入った。水音がした。健二がのぞくと、弟は大やかんに水を張って、コンロにかけるところだった。青い火が、やかんの底をなめる。

「なにしてる、こんな時間に」

「麦茶。朝、冷えてないと母さん、飲むもんないって怒るから」

 毎晩なのだ、と健二は思った。母のやかんが、いつのまにか弟の手に移っていた。自分の知らないところで、静かに。

 帰る朝が来た。バスの時刻を気にしながら、健二は早くに起きた。家じゅうがまだ薄暗い。

 台所へ行くと、ゆうべのやかんが、洗って伏せてあった。冷蔵庫のポットは、もう空に近い。健二はしばらくそれを見て、それから、やかんを手に取った。水を張る。重さが、腕に伝わってくる。母がこれを毎朝持ち上げていたのだと、今になって分かる。

 コンロの火をつけた。青い輪が、やかんの底に触れる。この火加減で合っているのか、分からない。母に聞けばよかった。稔に聞けばよかった。それも、しなかった。

 背中で、廊下の足音がした。

「兄さん、バス」

「分かってる。……これ、沸いたら火、止めといてくれ」

 稔は何も言わなかった。ただ、健二の横に来て、コンロの火をほんの少し弱めた。それが正しい火加減なのだと、その手つきで分かった。

 やかんが、まだ静かだ。沸くまでには、しばらくかかる。健二は玄関で靴を履き、振り返らずに外へ出た。

 朝の田は、来たときと同じ青のままだった。次に帰るとき、この麦茶を沸かすのは誰の手だろう。バス停に向かう坂の下で、健二はもう一度だけ、家のほうを見た。台所の窓が、うっすらと湯気で曇りはじめている。

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