妻を駅まで送り出したのは、朝の九時だった。
半年ぶりの同窓会だという。行っておいでと言ったのは自分なのに、玄関のドアが閉まった瞬間、家の中の空気がひとまわり重くなった気がした。
リビングのベビーベッドで、娘が眠っている。生後三か月。名前は結衣という。妻がいない家で、この子とふたりきりになるのは、これがはじめてだった。
見守り端末が、ベッドの柵に留めてある。小さな白い箱だ。呼吸のリズム、部屋の温度、最後にミルクを飲んだ時刻。画面に、緑の丸がおだやかに灯っている。異常なし、ということらしい。
大丈夫だ、と航は自分に言い聞かせた。緑なら、大丈夫。
*
十一時をまわったころ、結衣が泣きはじめた。
はじめは、猫が鳴くような細い声だった。それがだんだん角を持ち、部屋いっぱいに広がっていく。航はベッドに駆け寄って、端末をのぞいた。
〈おむつの可能性〉と、文字が浮かんでいた。
替えた。手順はおぼえていた。妻が何度も横で見せてくれた。留め方も、拭き方も、たぶん間違っていない。それなのに、結衣は泣きやまなかった。
〈空腹の可能性〉
今度はそう出た。ミルクを作る。温度を確かめる。腕に抱いて、乳首を口元へ運ぶ。結衣は顔をそむけ、いっそう激しく泣いた。飲まない。飲みたいわけじゃ、ないらしい。
画面が、次の候補を出した。〈眠気の可能性〉。
眠いなら、寝ればいいじゃないか。そう思ってから、自分の考えのばかばかしさに、少しだけ笑いそうになった。眠いのに眠れない。そういうことが、この世にはあるのだった。大人にも、ある。
*
抱いたまま、部屋を歩いた。
結衣の泣き声は、耳よりも先に胸に響いた。骨のあたりが、細かく震える。腕の中の体は、思っていたよりずっと熱くて、汗ばんでいて、そして小さかった。
端末の緑は、消えていない。呼吸も、心拍も、正常の範囲だと画面は言う。数字のうえでは、この子はなにも問題を抱えていない。
それでも、泣いている。
航は立ち止まった。窓の外で、蝉が鳴いている。夏の終わりの、少しかすれた声だった。カーテンの隙間から、白い光が床に一本落ちている。
数字にならないものが、この腕の中にある。それだけは、はっきりと分かった。
*
どうすればいいか、分からなかった。
妻に連絡することもできた。けれど、半年ぶりの時間を、泣き声で塗りつぶしたくなかった。端末のたすけを借りることもできた。けれど、候補はもう一巡りして、また〈おむつの可能性〉に戻っている。
航は、ただ、歩いた。
窓辺で、体をゆらした。意味のある動きではなかった。ただ、自分の重心を、右へ、左へ、送るだけ。結衣の頭を、手のひらでそっと支える。首は、まだ据わりきっていない。落とさないように、というより、この重みを取りこぼさないように、手が勝手に添っていた。
歌をうたおうとして、歌を知らないことに気づいた。
子守唄なんて、ひとつもおぼえていない。仕方なく、口をついて出たのは、学生のころによく聴いていた曲だった。歌詞はうろおぼえで、途中から音程もあやしくなった。それでも、低い声で、でたらめに、うたいつづけた。
*
いつ泣きやんだのか、分からなかった。
気づいたとき、胸の震えは止まっていた。結衣は、こぶしを口のそばに寄せて、まぶたを閉じていた。まつげが、ほんとうに短い。呼吸に合わせて、背中がゆっくり上下している。
航は、動けなかった。
腕がしびれていた。汗で、シャツが背中に貼りついていた。少しでも体をずらせば、また目を覚ますかもしれない。だから、彼はそのままの姿勢で、窓辺に立ちつづけた。
端末の緑が、視界の隅で灯っている。それは正しかった。呼吸も、温度も、ずっと正常だった。端末は、なにも間違っていない。
けれど、この子が泣きやんだ理由を、端末は書かなかった。
なぜだろう、と航は思った。おむつでも、空腹でも、眠気でもなかった。あるいは、そのぜんぶだったのかもしれない。分からない。分からないまま、腕の中の重みだけが、確かにそこにあった。
*
夕方、妻が帰ってきた。
玄関で靴を脱ぎながら、「どうだった」と笑った。楽しかったのだろう。頬が少し赤い。
「泣いてさ」と航は言った。「一時間くらい、泣きやまなくて」
「あらら」
「でも、寝た」
妻は、眠っている結衣をのぞきこんだ。それから、航のしわだらけのシャツと、しびれの残る腕を見て、少しだけ目を細めた。
「なにしたの」
「なんもしてない」と航は答えた。「ただ、抱いてた」
うまく説明できなかった。端末が候補を出したことも、歌を知らなかったことも、話せば話すほど、あの一時間から遠ざかる気がした。腕の中にあったあの重みだけは、言葉にならなかった。
*
その夜、結衣を妻に預けて、航は自分の腕を見た。
もう、しびれは引いていた。なにも、乗っていない。それなのに、腕はまだ、あの重さをおぼえているようだった。ほんの少し、内側に丸まっている。
いつか、この子は歩き出す。走り出す。手を離れていく。そのとき自分は、今日のことをおぼえているだろうか。数字に残らなかった一時間のことを。
窓を開けると、蝉の声が、もう聞こえなかった。かわりに、鈴虫が鳴いていた。夏は、いつのまにか、終わろうとしている。
航は、丸まった自分の腕を、もう一度だけ、そっと見た。