AI活用の教科書

坂道

物語2026年7月26日5 分で読了執筆: 翔平

車が勝手に走る時代に、娘は自分の手で坂道を上ろうとしている。夏の夕方、助手席の父の話。

読み物近未来親子

 坂の途中でエンジンが止まった。三度目だった。

 実里の右手がハンドルの上でこわばっている。半分下ろしたサイドブレーキ。踏みきれていないクラッチ。省吾は助手席で口を開きかけて、やめた。教えたい言葉は喉のあたりで渋滞していて、どれも今は邪魔になる気がした。

 「もう一回」

 実里が言った。誰にでもなく、自分に。

 この車は、省吾が二十代のころに乗っていた型だ。倉庫の奥で埃をかぶっていたのを、実里が見つけてきた。バッテリーを替え、油を差し、動くようにしたのは整備工場の老人で、その人は引き渡すとき、めずらしいねえ、と笑った。今どき、手で運転を覚えたいなんて。

 街を走る車は、もうずいぶん前から、人の手を必要としなくなっている。行き先を告げれば、あとは黙って運んでくれる。省吾自身、通勤で自分の手を使わなくなってどれくらい経つだろう。手のひらは、ハンドルの感触を忘れかけていた。

 実里は大学で、人がまだ手でやっていることを調べているらしかった。詳しくは聞いていない。ただ、免許を取るのに、わざわざ手動の車で練習したいと言ったとき、省吾は少し驚いて、それから、なぜか嬉しかった。その嬉しさの正体は、まだうまく言えない。

 夕方の坂は、二人のほかに車もない。蝉がどこかで鳴いている。窓を開けているから、草いきれと、熱くなったアスファルトのにおいが入ってくる。実里の額に汗が浮いていた。

 「上り坂で止まると、後ろに下がるだろう」

 省吾は言った。「その下がる感じを、こわがらなくていい。半クラのところを、足の裏で探す」

 実里はうなずいて、また左足に神経を集めた。エンジンが低くうなる。車体がわずかに前へ出ようとして、止まる。その、出ようとする一瞬を捕まえるのが、いちばん難しい。省吾も昔、この坂で何度も下がった。教習所ではなく、亡くなった父の助手席で。そのことを、今になって思い出した。

 実里の足がゆっくり上がる。車が、震えながら、前に出た。

 「――出た」

 実里が息を吐く。坂を、車はのろのろと上っていく。時速など、歩くほどもない。それでも上っている。省吾は、自分の足がいつのまにか床を踏んでいたことに気づいて、そっと力を抜いた。

 坂を上りきった平らなところで、実里は車を止めた。エンジンを切ると、蝉の声が一気に戻ってきた。

 「勝手に走る車のほうが、ずっと上手だよね」

 実里が、前を見たまま言った。「坂道発進なんて、迷いもしないで」

 「そうだな」

 「なのに、なんでこんなことしてるんだろう、私」

 言葉は笑っていたが、少し疲れていた。省吾は、その問いに答えを持っていなかった。持っていないことを、ごまかしたくなかった。

 「わからん」と、正直に言った。「でも、下がるのがこわくなくなったろう」

 実里が、こちらを見た。汗で貼りついた前髪の下の目が、坂の下のほうへ、それからまた前へ動いた。

 「うん。さっきより」

 帰りは、実里が運転すると言った。省吾は助手席のシートに背を預けた。手を出したくなるのを、こらえるのが仕事だと思った。娘の手が、ハンドルと、シフトと、自分の足の感覚だけで、車を進めていく。ときどきぎくしゃくして、また戻る。その、戻る動きを、省吾は黙って見ていた。

 坂を下りる。来るときにあれだけ手こずった場所を、今度は下から見上げる形になる。たいした坂でもなかったな、と省吾は思い、口には出さなかった。実里にとっては、たいした坂だったのだ。そして、たいした坂だったことを、この子はきっと覚えている。勝手に上ってくれる車では、坂は坂ですらない。

 信号のない交差点で、実里が一度、大きく息を吸って、車を止めた。誰も見ていない。カメラも、この古い車には、たぶんついていない。それでも実里は、左右を、自分の首を回して確かめた。

 安全だから確かめるのではなく、確かめる手を、覚えようとしているように見えた。

 家の近くまで来て、実里がぽつりと言った。

 「お父さん、この坂、また来ていい?」

 省吾は、窓の外の、暮れかけた空を見た。次に何と答えるべきか、正しい言葉を探すのをやめた。

 「ああ」とだけ言った。「まだ、下手だからな」

 実里が、少し笑った。エンジンの音の下で、その笑いはすぐ夏の夕方に溶けた。省吾は、明日も蝉が鳴くだろうかと、なぜかそんなことを考えていた。上りきったところで見た、あの平らな道の続きが、どこへ行くのかは、まだ誰も知らない。

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