土曜の三時に母の家へ寄るのが、いつのまにか美里の習慣になっていた。
父が亡くなってから、もう四年になる。最初の冬は心配で毎週通った。母がひとりで湯をわかし、ひとりで湯のみを伏せていく姿を見るのが、なんとなくつらかった。やがて母は近所づきあいを取り戻し、美里の足も少しずつ遠のいて、それでも三時のお茶だけは続いていた。
その日も、玄関を開けると、奥から母の声がした。
笑っていた。
めずらしいな、と思った。電話だろうか。けれど耳をすますと、相手の声は聞こえない。母の声だけが、ぽつ、ぽつと、間を置いて続いていた。だれかに話しかけては、うなずいて、また話しかけている。
*
居間をのぞくと、母は卓袱台の前にいた。
その手元に、平たい板のような画面が立ててある。去年、美里が「これがあれば写真も見られるし」と置いていったものだった。母は機械が苦手で、ずっと隅に伏せてあったはずのそれを、いま、まっすぐに見ていた。
「あら、来てたの」
母はふりむいて、少しばつが悪そうに画面を伏せた。子どもがいたずらを見つかったときの顔に、似ていた。
「だれかと話してたの」
「ううん。……これと、ね」
母は伏せた画面を、指の背でそっとなでた。その手つきを、美里はどこかで見たことがある気がした。猫の背を、起こさないようになでるときの手だ。
お茶をいれるあいだ、母はぽつぽつと話した。さみしいから、というわけではないのだと、言いわけのように。ただ、夕方になると話し相手がいなくて、それで、と。画面の向こうの声は、何を聞いてもおこらないのだと、母は言った。
*
その日から、美里は少し気をつけて母を見るようになった。
母には、話したいことがたくさんあった。畑のことも、亡くなった人のことも、嫁いだ娘がなかなか帰ってこないことも。けれど美里は、忙しかった。母の話は長く、そして同じところを何度も回った。
「この前ね、郵便局の前で、田中さんに会って」
「——それ、先週も聞いた」
言ってしまってから、美里はいつも、少しだけ後悔する。母の口が、半分ひらいたまま閉じる。そのあとに続くはずだった言葉が、行き場をなくして、湯気みたいに消える。
画面の向こうの声は、たぶん、そうは言わないのだろう。
ある日、洗いものをしながら、美里はそれとなく聞いてみた。あれと話して、なにが楽しいの、と。台所の窓から、西日が斜めに差していた。
母は少し考えて、それから、なんでもないことのように言った。
「おなじ話を、二度しても、いやがらないの」
水の音が、やけに大きく聞こえた。
「あの人はね、わたしが田中さんの話をまた始めても、はじめて聞くみたいに聞いてくれるのよ。だから、気がねがいらなくて」
気がね、と母は言った。
その言葉が、美里の胸のやわらかいところに、しずかに刺さった。母はいつから、娘に話すのに、気をつかうようになっていたのだろう。
*
帰りの電車で、美里はずっと、ふたつの湯のみのことを考えていた。
母の家には、いつも湯のみがふたつ出してある。父がいたころからの癖で、ひとつは母の、ひとつは——たぶん、だれのものでもなくなって、それでも母は、ふたつ伏せ、ふたつ洗う。
画面の向こうのあれには、お茶はいらない。けれど母は、その声に向かって、きっと今日もふたつ目の湯のみに手を伸ばしているのだろう。だれかがそこにいることに、しておきたいから。
美里は、自分がいつから母の話を「さばく」ようになっていたかを、思い出せなかった。聞いていたつもりで、たぶん、ちゃんとは聞いていなかった。要点だけ受け取って、繰り返しを切り落として、効率よく。
窓の外を、夕方の街が流れていく。
*
次の土曜、美里はいつもより早く、二時半に母の家の戸を開けた。
母はまた、画面に向かって何か話していた。美里は、声をかけずに台所へ行き、やかんを火にかけた。湯のみを、ふたつ、棚から出す。それから少し迷って、自分のぶんも足して、三つにした。
「お母さん」
ふりむいた母に、美里は座布団を勧めた。
「田中さんの話、まだ途中だったでしょ。聞かせてよ。今日は、時間あるから」
母の目が、まるくなった。それから、ゆっくりと、笑った。さっき画面に向けていたのと、同じ顔だった。いや——少しだけ、ちがう顔だったかもしれない。
湯気が、三つ、ならんで立ちのぼる。
その話を、美里は、はじめて聞くみたいに聞いた。たぶん。