始発の車庫を出ると、朝の川面が白く光っていた。
梶は左のミラーで、後ろの空いた座席を確かめる。誰も乗っていない。整理券の機械が、扉の開閉に合わせて小さく鳴った。ぺ、と紙を一枚吐く。誰も取らないその紙を、梶は手を伸ばして抜き、指で折って胸ポケットに入れた。長年の癖だった。
四十号線を走るこの路線は、今日で終わる。明日からは同じ道を、運転席に人のいないバスが走る。町の掲示板にもそう貼ってあった。停留所の名前を読み上げる声も、扉を開けるのも、運賃を確かめるのも、これからは全部あちらがやる。梶のする仕事は、もう一つも残らない。
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三つ目の停留所で、ミツが乗ってきた。
火曜の朝はいつもこの人だ。手すりを両手で握り、片足ずつ、時間をかけて上がってくる。梶はブレーキを踏んだまま待つ。急がせない。ミツが座席に手をかけて、腰を落ち着けるまで、バスは動かさない。それが十年続いた。
「今日で終いなんやってねえ」
ミツが言った。梶は前を見たまま、うん、とだけ返した。
「明日から、どうやって乗るんかしらん」
その声が少し細かった。梶はミラー越しにミツを見た。手の中に、この前渡された案内の紙を握っている。折り目がやわらかくなるほど、何度も開いて見たのだろう。新しいバスは、扉の横の画面に手をかざして乗るのだと、そこに書いてある。ミツは画面というものが、どうにも苦手だった。
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橋の上で信号が赤になった。
梶はサイドブレーキを引き、整理券の機械から一枚、紙を抜いた。数字が印字されている。裏は白い。梶はハンドルの脇にいつも挟んでいる鉛筆を取り、その白い裏に、停留所の名を順に書いていった。字は大きく、角ばっていた。
橋。郵便局前。市場。病院下。
「ここで降りるんやろ」
梶は病院下のところを、鉛筆の先で二度、丸で囲んだ。
「明日のは、この画面のとこに、手えかざすだけでええ。難しいことはせんでええ。ほんで、降りるときはこの赤いのを押す」
ミツは受け取った紙を、老眼鏡越しにのぞきこんだ。それから、うん、うん、と小さくうなずいた。信号が青になる。梶はブレーキを離した。
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市場前で、若い母親が子どもを連れて乗ってきた。子どもは整理券の機械が紙を吐くのを見て、ぱっと手を伸ばして一枚取った。取ったはいいが、どうしていいかわからず、母親を見上げる。
「それ、降りるときに運賃箱に入れるんよ」
梶は言った。子どもは紙をぎゅっと握って、席に座った。降りるとき、その子は背伸びをして、握りしめた紙を箱にすべり込ませた。梶は「はい、ありがとう」と言った。子どもは振り返って、もう一度こちらを見た。
明日から、あの機械は紙を吐かない。子どもが手を伸ばすことも、母親が教えることも、もうない。それが良いのか悪いのか、梶にはわからなかった。ただ、紙を握る小さな手のことを、少し思った。
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病院下が近づいた。
ミツが手すりをつかんで、ゆっくり立ち上がる。梶はいつもより手前で速度を落とし、停留所のちょうど前に、扉を合わせて止めた。段差の低いところ。ミツが降りやすいところ。それも、体が勝手に覚えていた。
ミツは降り口で一度立ち止まり、こちらを振り返った。
「長いこと、ありがとうね」
梶は何と言えばいいのか、言葉を探した。探しているうちに、ミツは前を向いてしまった。手すりを頼りに、一段、また一段と降りていく。梶は結局、「気ぃつけて」とだけ言った。いつもと同じ言葉だった。
扉が閉まる。ミツは歩き出す前に、あの白い裏の紙を、もう一度開いて見ていた。橋、郵便局前、市場、病院下。丸で囲んだところを、指でなぞっている。
*
終点で、乗客はみんな降りた。
梶は誰もいない車内を、後ろまで歩いた。日の当たる座席がぬるく光っている。整理券の機械のところで足を止めた。扉を開けると、機械がぺ、と紙を吐いた。まだ数字は続いている。今日の分の、最後の番号だった。
梶はその一枚を抜いた。折りたたんで、胸ポケットに入れる。朝と同じ癖だった。ただ今日は、少しだけ長く、指の間でその紙を持っていた。
車庫まで、あと一本。梶は運転席に戻り、シートベルトを締めた。明日、この道を走るバスには、締めるベルトも、吐く紙も、待つ理由もない。
ミツは、あの紙を、明日ちゃんと持ってくるだろうか。
エンジンをかける。ミラーの中で、空いた座席が朝と同じように光っていた。梶は胸ポケットの上に、一度だけ手を置いた。それから、バスを出した。