夜の空に、光の菊が開いた。
寸分の狂いもなく、青が咲き、金が散り、時間どおりに消えた。川向こうの空を無人の機体が埋めていて、色の一粒までが決められた場所に置かれていく。誰も花火を上げていないのに、花火だけが正確に上がる夏だった。
奈緒は縁側に腰かけて、その完璧な空をぼんやり眺めていた。膝の上で、湊が同じ空を見上げている。五歳の首はまだやわらかくて、後ろにそらすたびに、汗のにおいがふわりと立った。
「ママ、あれ、だれがやってるの」
「さあ。だれもやってないのかもね」
「ふうん」
湊はすぐに空へ興味をなくした。きれいすぎるものは、子どもの目にはあんがい早く飽きるらしい。
*
奈緒は立って、台所の引き出しの奥から、しけった箱を取り出した。去年の夏に買って、使いきれずに残っていた線香花火だった。紙のこよりは湿気を吸って、少しくたびれている。
庭に下りて、バケツに水を張った。マッチをすると、頭の火薬がしゅっと鳴って、暗がりに小さな灯りがともった。それだけのことなのに、湊が息を止めたのが背中で分かった。
「持ってごらん」
一本を渡すと、湊は両手で捧げるように受け取った。奈緒がマッチの火を近づける。先が丸くふくらみ、ぱち、と赤い玉になった。
玉から、細い火花が糸のように伸びていく。一本、また一本。松の葉のように広がって、庭の闇にちりちりと音を落とす。
「うごいてる」
「うん、生きてるみたいでしょ」
湊は返事もせずに見入っていた。火花の一本が、湊の頬に映って、そこだけ橙色に染まっている。空の花火はあんなに大きかったのに、この子が見ているのは、指先の、消えそうな火だった。
*
火の勢いが、ゆっくり落ちてくる。散っていた火花が短くなり、玉が下でふるえはじめる。
「ママ、これ、おちる」
湊の声が細くなった。手が動かないように、けれど動いてしまうように、こわばっている。
「動かさないで。じっとしてると、長くもつよ」
「おちないで」
湊は玉に向かって小さく言った。願うというより、頼むような声だった。奈緒はその横顔を見ていた。教えることは、何もなかった。落ちるものは落ちる。それを、この子はいま、手のひらの高さで知ろうとしている。
川向こうでは、また空が明るくなった。時間どおりの光が、時間どおりに咲いて、時間どおりに消える。誰も落ちるのを惜しまない花火。奈緒は一度もそちらを見なかった。
*
玉が、ふっと重さを増した。糸が切れるように、赤い一点が、ぽとりと落ちた。
地面で小さくはぜて、それきり暗くなった。
湊はしばらく、火の消えた紙の先を見つめていた。落ちた場所を、目でさがしている。それから顔を上げて、奈緒を見た。泣くのかと思ったが、泣かなかった。
「もういっかい」
その一言に、奈緒はなぜか胸を突かれた。もう一回。落ちると分かっていて、それでも、もう一回。
箱には、まだ何本か残っていた。奈緒はマッチをすった。頭の火薬が、しゅっと鳴る。
次の玉が、湊の手のなかで生まれた。火花が伸びはじめる。奈緒は、今度は落ちる瞬間を見逃さないように、と思ってから、その考えをそっと手放した。見逃してもいい。落ちるまでの、この間だけが、たぶん本当のところだった。
空では、機体が最後の一発を上げていた。誰も見ていない完璧な光が、川向こうで、静かに開いていた。