金曜の最終の一本前で帰ると、改札の向こうにひなが立っていた。半年前より、背が伸びていた。
隆が手を挙げると、ひなは小さく手を振り返した。走ってはこない。前は改札を抜けるより先に飛びついてきたのに、今日は柱のそばで待っている。その待ち方が、少し大人びて見えた。
「ただいま」 「おかえり」
言葉の順番が、いつのまにか逆になっていた。帰る側の隆が「ただいま」と言い、迎える側のひなが「おかえり」と言う。当たり前のようで、この街に自分の居場所がだんだん薄くなっていく気配を、その一言で知る。
*
駅前のロータリーには、自動運転の巡回バスが音もなく滑り込んでいた。乗り込む人が手をかざすと、扉が静かに閉まる。隆たちは乗らずに、歩いて帰ることにした。妻はまだ仕事で、家に着くのは八時を過ぎるという。
「歩く?」 「うん。こっち回ってこ」
ひなが選んだのは、遠回りの道だった。線路をまたぐ歩道橋のある道。昔、まだこの街に住んでいたころ、二人でよく通った道だ。
夕方の光が、アスファルトを橙に染めていた。ひなの歩幅が、前より広くなっている。隆は無意識にゆっくり歩こうとして、そうしなくてもいいことに気づいた。もう、合わせてやらなくても、隣に並んでくる。
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歩道橋の階段を上ると、風が通った。
欄干のずっと下を、下り電車が長い体をくねらせて過ぎていく。ひなはその流れを目で追った。昔は、ここで電車を見るのが好きだった。けれど欄干は高くて、小さなひなの背では、金網の向こうがよく見えなかった。だから隆は、いつもひなを肩に乗せた。
肩車をすると、ひなは急に高くなった世界にはしゃいで、隆の頭を両手でぎゅっと押さえた。「みえる、みえる」と、足をばたつかせた。首の後ろに、小さなかかとが当たった。あの重さを、隆はまだ手の甲のあたりで覚えている。
「電車」 と、隆は言いかけて、やめた。
ひなは肩車を待っていなかった。欄干に手をかけ、少しだけつま先で背を伸ばして、自分の目で電車を見ていた。金網の菱形の向こう、遠ざかっていく赤いテールランプを、まっすぐに。
背が、届いていた。
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隆は、しゃがもうとした手を、途中で止めた。
乗せてやろうとした肩は、もう要らない。そのことが、うれしいのか、少しさびしいのか、自分でもうまく仕分けられなかった。半年ぶりに会うたびに、ひなは知らないところで背を伸ばしている。自転車に乗れるようになったのも、鉄棒で逆上がりができるようになったのも、隆はあとから妻に聞いた。決定的な瞬間には、たいてい、この街にいなかった。
電車が見えなくなると、ひなが振り返った。
「パパ、見えた?」
その問いに、隆は少し戸惑った。前はいつも、隆が「見えるか?」と聞く側だった。高い所から、ちゃんと景色が見えているかと。それがいつのまにか、ひなのほうが、隆に見えているかを気にかけている。背の低かった子が、背の高い父を、下から見上げて心配している。
「見えた」 と、隆は答えた。ほんとうは、電車より、その背中を見ていた。
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階段を下りるとき、ひなが隆の手を取った。
久しぶりの手だった。前より大きくなって、指の長さが、隆の手のひらの真ん中まで届く。けれど握り方は昔のままで、少し汗ばんでいて、下りの一段ごとに、ぎゅっと力がこもる。高い所から下りるのは、この子はまだ、少しだけ怖いのだ。そこだけが、変わっていなかった。
「ゆっくりでいいよ」 と、ひなが言った。隆にではなく、たぶん自分に言い聞かせるように。
どちらが手を引いているのか、途中で分からなくなった。引いているようで、引かれている。支えているようで、支えられている。ただ、二つの手のあいだの汗ばんだ温度だけが、はっきりとそこにあった。
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家までの道は、街灯がひとつずつ灯りはじめていた。ひなのポケットで、見守り用の端末が「もうすぐ帰宅します」と、母に静かに知らせているのだろう。位置も、歩く速さも、機械はすべて正確に測っている。
けれど、この子がいつ背を伸ばしたのか。いつ肩車を卒業したのか。それを測る目盛りは、どこにもない。
角を曲がると、家の窓に明かりがついていた。妻が、思ったより早く帰っていた。ひなが手を放して、少しだけ駆けた。
隆は、放された手をひらいて、その温度が抜けていくのを、しばらく見ていた。次に帰るのは、また来月だ。そのとき、この子はまた、どこまで背を伸ばしているだろう。
玄関の前で、ひなが振り返って、「早く」と手招きした。
その手が、今度はずいぶん高い所にあるように、隆には見えた。