朝いちばんの客は、段ボールをひと箱、抱えて入ってきた。 カウンターに置くと、古い紙とほこりの匂いが立った。千尋はそれをそっと吸い込む。嫌いではない匂いだった。 「祖母のものなんです。処分するのも、なんだか忍びなくて」 男はそう言って、困ったように笑った。まだ二十代だろうか。喪服ではないが、どこか改まった服を着ていた。 千尋は一冊ずつ取り出す。背表紙を端末のガラス面にかざすと、画面に数字が並んだ。定価。相場。状態のランク。買い取りの目安。すべて一秒とかからない。 便利になった、と思う。値づけで迷って夜がふけることは、もうなくなった。祖父の代からこの店をやっていて、千尋が継いだときには、その端末がもうカウンターの端に据えられていた。相場を読み違えることはない。強気に言い切る。時々、言い切りすぎる。それでもたいてい、正しかった。
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文庫がひとつかみ、単行本が数冊。詩集が一冊。 詩集をかざすと、画面はすぐに値を返した。数字は、遠慮のない小ささだった。刷りの多い版で、状態も並。市場にいくらでもある、と画面は言っていた。 千尋はうなずきかけて、指を止めた。 ページのあいだから、何かがのぞいていた。 抜き取ると、それは一枚の紙きれだった。手のひらの半分ほどの厚紙。角が丸くすり切れている。表には、万年筆の細い字で、短い一行が書いてあった。
――また、ここから。
裏には日付。ずいぶん昔の、春の日付だった。 栞だ、と分かるのに少しかかった。読みさしの合図に、誰かが挟んだまま忘れた栞。詩集は、ちょうどその紙の挟まったページで、背が白くくたびれていた。何度も開かれた折り目だった。 端末は、その紙を数えなかった。本の値には、一円も足さなかった。当たり前だ。挟まっているものまで見るようにはできていない。それが本の価値を決めるとは、誰も教えていない。 千尋は栞を、手のなかでひっくり返した。
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「これ、」 声をかけると、男が振り返った。 「本に、挟まってました。おばあさまの、字ですか」 男は紙を受け取り、目を落とした。それから、ながいこと黙っていた。 「……祖母は、この詩集が好きで」 ぽつりと言う。 「同じところばかり、何度も読んでたみたいで。最後まで読まないんですよ。途中まで来ると、また最初に戻る。もったいない読み方だなって、子どもの頃は思ってました」 男は栞のふちを、親指でなでた。 「また、ここから。って。何のことか、聞きそびれました」 窓の外を、宅配の車が通り過ぎた。店の奥で、古い柱時計が半端な時刻を打った。 千尋は、値づけの画面をそのままにしていた。数字は、まだ遠慮のない小ささのまま光っている。
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「その詩集は、」 千尋は言った。 「うちで引き取らないでおきます。持って帰られては、どうですか」 男は顔を上げた。 「でも、処分をと思って」 「値はつきません」千尋は画面を指した。「機械が言うには、いくらでもある本だそうです。……でも、その一冊は、そうじゃないでしょう」 男は詩集を、両手で受け取った。栞を、もとの折り目のページに、そっと戻した。挟まる場所を、紙のほうが覚えているみたいに、すんなりと収まった。 「ありがとうございます」 礼を言って、男はほかの本を置いて帰った。詩集だけを、鞄のいちばん上に入れて。
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昼過ぎ、常連の老人が文庫を一冊買っていった。 千尋は包む前に、抽斗を開けた。奥に、無地の栞が束で入っている。祖父の代からの、店の名も入っていない、ただの厚紙。いつからか、誰も使わなくなっていた。しおりなど、要らない時代になった。読んだところは、画面が覚えている。 一枚を抜いて、文庫の、まだ誰も開いていないページのあいだに挟んだ。 どこでもよかった。読み手が、いつか手を止めるところ。そこで一度、顔を上げてくれたなら。 包みを渡すと、老人は不思議そうに、それでも何も言わずに受け取っていった。 端末が、次の客の本にまた、迷いのない数字を返す。 千尋は、抽斗の栞の束を、しばらく見ていた。この一枚が、いつか、誰かのどのページで止まるのか。それは、どの画面にも出てこない。 また、ここから。 声に出さずに、そう読んでみた。