AI活用の教科書

物語2026年7月25日4 分で読了執筆: 翔平

夏の朝、母は娘の白いシャツにアイロンをかける。昨夜の言葉が、まだ台所に残っている。

読み物親子

 朝の五時半に目が覚めてしまうのは、もう何年も続く癖だった。カーテンの隙間が白い。今日も暑くなる、と壁の丸い機械が静かに告げた。設定した覚えのない声だった。娘が去年、勝手に喋るようにしたのだ。

 美津子は台所に立った。冷蔵庫が、昨夜の残りで作れる献立をいくつか浮かべているのが、扉の端の小さな光で分かる。見ないふりをして、やかんを火にかけた。

 昨夜のことが、まだこの部屋に残っている気がした。

 里香が進路の紙を出してきたのは、夕飯のあとだった。美術の学校に行きたい、と言った。美津子はとっさに、食べていけるの、と聞いた。里香の箸が止まった。

「そういうことじゃないんだよ」

 里香はそう言って、自分の部屋に入っていった。美津子は追わなかった。追う言葉を持っていなかった。皿を洗いながら、自分の声が思ったより硬かったことだけを、あとから思い出していた。

 食べていけるの。母が、ずっと自分に言ってきた言葉だった。言われるたびに、胸の奥が少し冷たくなった。それを、同じ声で、同じ子に返していた。

 洗濯機が終わりを知らせた。里香の白いシャツが、しわだらけで丸まっている。今日は学校で発表があると、昨日の昼には機嫌よく話していた。あの紙を出す前の話だ。

 美津子はアイロン台を出した。スチームの温まる音がして、湯気がひとすじ立った。娘のシャツを広げる。襟のところに、細かい皺が寄っている。

 あて布をして、ゆっくりと滑らせる。皺が、少しずつ伸びていく。熱と重みをかけて、押さえて、待つ。そうすると布は元の形を思い出す。母がやっていたのと、同じ手つきだった。教わった覚えはない。ただ、横で見ていた。

 機械に頼めば、たたんで、皺の一本もなく返してくるのだろう。里香ならそうする。けれど美津子の手は、こういうことだけは自分でやりたがった。理由はうまく言えない。

 物音がして、里香が台所に来た。まだ眠そうな顔をしている。美津子と目が合って、それから、アイロン台の上のシャツに目を落とした。

「……自分でやるのに」

「もう、かけちゃった」

 里香は椅子に座った。何も言わずに、麦茶を注いでいる。氷の鳴る音がやけに大きい。美津子はアイロンを立てて、シャツの前を返した。背中側にも、細かい皺が残っている。

 少しの間、二人とも黙っていた。窓の外で、蝉が鳴きはじめた。今年はじめて聞く声だった。

「あのさ」と里香が言った。「昨日の」

 美津子は手を止めなかった。止めると、続きが言えなくなる気がした。

「無理だって言われると思ってた」

「……言ったよ」

「うん。でも、追いかけてこなかった」

 美津子はあて布の上を、もう一度滑らせた。伸びたと思った皺が、袖の付け根に一本だけ、どうしても残っている。何度かけても、そこだけ戻る。深く折れた跡は、そう簡単には消えないのだった。

「ここ」と美津子は言った。「どうしても、伸びない皺があるの」

 里香が立ってきて、覗き込んだ。母の手元を、じっと見ている。

「それ、いいんじゃない」と里香が言った。「わたし、そこは気にしない」

 美津子は袖から手を離した。一本残った皺の上に、湯気がふわりとかかって、消えた。

 シャツを渡すと、里香はそれを着て、鏡の前で襟を直した。背筋を伸ばして、それから、少しだけこちらを振り返った。

「行ってくる」

「うん」

 玄関が閉まる。美津子はアイロン台の前に、しばらく立っていた。台の上に、娘の体温の抜けたぬくもりが、まだ残っている気がした。

 あの紙のことは、まだ何も決まっていない。食べていけるのか、本当のところは分からない。それでも、追いかけなかった夜のことを、里香は覚えていた。伸ばしきれない皺のことを、いいと言った。

 美津子はアイロンの電源を落とした。冷めていく金属の面に、窓の光が細く映っている。麦茶のグラスに、氷がまだ溶けずに残っていた。もう一杯、自分の分を注ごうか。そう思って、蛇口の水を、しばらくただ眺めていた。

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