AI活用の教科書

短冊

物語2026年7月1日4 分で読了執筆: 翔平

母のいない七夕。娘が短冊に書いた、ひとつの願い。

読み物家族近未来

笹は、駅前の花屋で買った。

葉の先が少ししおれていたが、ほかに売っていなかった。涼介はそれをバケツの水に挿し、ベランダの隅に立てかけた。風が通るたび、細い葉が乾いた音で鳴った。

七月のはじめだった。妻の里加は、先週から研修で関西にいる。ひと月だけの話だと分かっていても、家の中の空気は、いつもより少し広く感じられた。

「パパ、たんざく、まだ?」

娘の杏が、リビングから顔を出した。六歳。保育園で七夕の話を聞いてきたらしく、帰ってからずっとこの調子だった。

「あるよ。ほら」

涼介は文具の引き出しから、色のついた短い紙を出した。ピンク、黄色、水色。杏はそれを両手で受け取って、しばらく一枚ずつ眺めていた。

「ねがいごと、なんてかこうかな」

杏はテーブルに紙を広げ、鉛筆を握ったまま動かなかった。

部屋のスピーカーが、その声を拾った。やわらかい返事がする。

「願いごとなら、こんなのはどうかな。『かぞくみんなが げんきにすごせますように』」

すらすらと、整った言葉が空中に並んだ。続けて、もう三つ、四つ。どれも、きれいだった。保育園の先生が黒板に書くような、お手本の願いごと。

杏は、その声をぽかんと聞いていた。それから、鉛筆を置いて、首をかしげた。

「ちがうの」

「ちがう?」と涼介は聞き返した。

「あのね、ちがうの」

杏はうまく言えないらしく、ただ唇をとがらせた。涼介にも、何が「ちがう」のかは分からなかった。ただ、その横顔が、自分の言葉を探しているのは分かった。

「いいよ、好きなの書いて」

涼介がそう言うと、杏はもう一度鉛筆を握った。

子どもの字は、まっすぐには進まない。

「ま」の字が、紙の真ん中で大きくふくらむ。「が」の点が、はみ出して下にずれる。書いては消し、消しすぎて紙が薄くなり、それでもかまわず上から書いた。涼介は隣で、麦茶のグラスの汗を指でなぞりながら、それを見ていた。

「できた」

杏が紙を持ち上げた。水色の短冊に、鉛筆の字が躍っていた。

〈ままのけんしゅうが はやくおわりませんように〉

涼介は、それを二度読んだ。

「……杏。これ、『ように』じゃなくて、終わってほしいなら――」

言いかけて、口をつぐんだ。

スピーカーが、また控えめに口を挟もうとした。「もしかすると、『はやくおわりますように』かもしれませんね」。正しい。たしかに、杏が言いたかったのは、そっちだろう。研修が早く終わって、ママが帰ってきますように。

でも杏は、首を横に振った。

「ちがうの。これでいいの」

「これで、いいの?」

「うん」

杏は、自分の書いた字を、満足そうに見ていた。涼介には、その理屈は分からなかった。間違っているのに、本人がいいと言う。直してやるのが親だ、とも思った。

けれど、その曲がった字を見ているうちに、なぜか直す気が失せた。「おわりませんように」。終わらないでほしい、と読めてしまうその一行が、おかしくて、少しだけ、痛かった。

夜、杏を寝かしつけたあと、涼介はベランダに出た。

笹に、短冊を結んだ。ピンクには杏の好きなキャラクターの名前、黄色には「アイスたべたい」。そして水色の、あの一枚。

風が出ていた。三枚の紙が、それぞれの速さで揺れる。水色のが、いちばん大きく揺れた。

スピーカーに頼めば、お手本のような願いごとを、いくらでも書いてくれる。きれいで、正しくて、誰が読んでも意味の通る言葉を。涼介自身、仕事のメールはたいていそうやって整えてもらっている。そのほうが、早いし、間違いがない。

それでも、と思う。あの曲がった「ま」の字を、自分は直さなくてよかった。たぶん。

里加に、写真を送ろうかと思って、やめた。明日、杏に電話で読ませよう。「ままのけんしゅうが、はやくおわりませんように」。そのまま、間違ったまま、あの子の声で。

電話の向こうで、里加がどんな顔をするのか、涼介には想像がついた。

笑って、それから、少し黙るだろう。きっと、すぐには言葉が出てこない。涼介がいま、ちょうどそうであるように。

風が、また通った。

水色の短冊が、暗がりで一度だけ、ひるがえった。

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