笹は、駅前の花屋で買った。
葉の先が少ししおれていたが、ほかに売っていなかった。涼介はそれをバケツの水に挿し、ベランダの隅に立てかけた。風が通るたび、細い葉が乾いた音で鳴った。
七月のはじめだった。妻の里加は、先週から研修で関西にいる。ひと月だけの話だと分かっていても、家の中の空気は、いつもより少し広く感じられた。
「パパ、たんざく、まだ?」
娘の杏が、リビングから顔を出した。六歳。保育園で七夕の話を聞いてきたらしく、帰ってからずっとこの調子だった。
「あるよ。ほら」
涼介は文具の引き出しから、色のついた短い紙を出した。ピンク、黄色、水色。杏はそれを両手で受け取って、しばらく一枚ずつ眺めていた。
*
「ねがいごと、なんてかこうかな」
杏はテーブルに紙を広げ、鉛筆を握ったまま動かなかった。
部屋のスピーカーが、その声を拾った。やわらかい返事がする。
「願いごとなら、こんなのはどうかな。『かぞくみんなが げんきにすごせますように』」
すらすらと、整った言葉が空中に並んだ。続けて、もう三つ、四つ。どれも、きれいだった。保育園の先生が黒板に書くような、お手本の願いごと。
杏は、その声をぽかんと聞いていた。それから、鉛筆を置いて、首をかしげた。
「ちがうの」
「ちがう?」と涼介は聞き返した。
「あのね、ちがうの」
杏はうまく言えないらしく、ただ唇をとがらせた。涼介にも、何が「ちがう」のかは分からなかった。ただ、その横顔が、自分の言葉を探しているのは分かった。
「いいよ、好きなの書いて」
涼介がそう言うと、杏はもう一度鉛筆を握った。
*
子どもの字は、まっすぐには進まない。
「ま」の字が、紙の真ん中で大きくふくらむ。「が」の点が、はみ出して下にずれる。書いては消し、消しすぎて紙が薄くなり、それでもかまわず上から書いた。涼介は隣で、麦茶のグラスの汗を指でなぞりながら、それを見ていた。
「できた」
杏が紙を持ち上げた。水色の短冊に、鉛筆の字が躍っていた。
〈ままのけんしゅうが はやくおわりませんように〉
涼介は、それを二度読んだ。
「……杏。これ、『ように』じゃなくて、終わってほしいなら――」
言いかけて、口をつぐんだ。
スピーカーが、また控えめに口を挟もうとした。「もしかすると、『はやくおわりますように』かもしれませんね」。正しい。たしかに、杏が言いたかったのは、そっちだろう。研修が早く終わって、ママが帰ってきますように。
でも杏は、首を横に振った。
「ちがうの。これでいいの」
「これで、いいの?」
「うん」
杏は、自分の書いた字を、満足そうに見ていた。涼介には、その理屈は分からなかった。間違っているのに、本人がいいと言う。直してやるのが親だ、とも思った。
けれど、その曲がった字を見ているうちに、なぜか直す気が失せた。「おわりませんように」。終わらないでほしい、と読めてしまうその一行が、おかしくて、少しだけ、痛かった。
*
夜、杏を寝かしつけたあと、涼介はベランダに出た。
笹に、短冊を結んだ。ピンクには杏の好きなキャラクターの名前、黄色には「アイスたべたい」。そして水色の、あの一枚。
風が出ていた。三枚の紙が、それぞれの速さで揺れる。水色のが、いちばん大きく揺れた。
スピーカーに頼めば、お手本のような願いごとを、いくらでも書いてくれる。きれいで、正しくて、誰が読んでも意味の通る言葉を。涼介自身、仕事のメールはたいていそうやって整えてもらっている。そのほうが、早いし、間違いがない。
それでも、と思う。あの曲がった「ま」の字を、自分は直さなくてよかった。たぶん。
里加に、写真を送ろうかと思って、やめた。明日、杏に電話で読ませよう。「ままのけんしゅうが、はやくおわりませんように」。そのまま、間違ったまま、あの子の声で。
*
電話の向こうで、里加がどんな顔をするのか、涼介には想像がついた。
笑って、それから、少し黙るだろう。きっと、すぐには言葉が出てこない。涼介がいま、ちょうどそうであるように。
風が、また通った。
水色の短冊が、暗がりで一度だけ、ひるがえった。