AI活用の教科書

浮く

物語2026年7月16日4 分で読了執筆: 翔平

市民プールの午後。水を怖がる子と、若い指導員の手のあいだにあるもの。

読み物近未来

 塩素のにおいが、天井の高いところにたまっている。

 午後二時の市民プールは、光がよく回った。水面が波打つたびに、天井に網の目みたいな模様が走る。菜津はプールサイドにしゃがんで、そうたの足の甲を見ていた。小さな爪に、水滴がひとつ乗っている。

「せんせい、きょうは顔つけなくていい?」

 そうたが上目づかいで聞く。七歳の、まだ前歯の抜けた口で。

「うん。今日はここに立ってるだけでいい」

 菜津はそう言って、自分も膝まで水に入った。冷たさが脛を上っていく。そうたは浅い方の壁に背中をぴたりとつけて、両手で縁をつかんでいた。指の関節が白い。

 このプールに、春から新しい機械が入った。天井の四隅に、水中の動きを読むカメラ。泳ぐ人のフォームを追って、腕の角度や蹴りのタイミングを画面に映してくれる。大人の教室では評判がいい。自分の泳ぎが線と数字になって返ってくるのは、たしかにおもしろい。

 子どもの初心者クラスにも、その画面が置かれた。上のほうにいる誰かが、そのほうが指導の記録が残ると決めたらしい。菜津は一度だけ、そうたの様子をその画面に映してみたことがある。〈水への順応度・低〉と出た。まちがってはいない。ただ、そうたの前でそれを見るのは、二度目からやめた。

 数字はそうたを励まさない。そうたを励ますのは、たぶん、もっと別のものだった。

「せんせい、水の中って、下に引っぱられる感じする」

「するね」

「せんせいも?」

「する。今もしてる」

 そうたが少し笑った。笑うと、つかんでいた手の力がほんの少しゆるむのが、菜津には見えた。恐怖はたいてい、手や肩や、息の止まり方に出る。画面の外の、そういうところに。

「手、貸してごらん」

 そうたは片手だけ縁から離して、菜津の手のひらに自分の手を重ねた。汗と水で、境目がわからないくらいぬれている。菜津はその手を引っぱらなかった。ただ、下から支えるように置いた。

「ぼく、うくのこわい。おっこちそうで」

「落ちないよ。水は、そうたのこと、ちゃんと持ち上げようとしてる」

「ほんと?」

「ほんと。力を抜くと、水のほうが仕事してくれる」

 そうたが、ゆっくり背中を壁から離した。菜津の手が、その背中の下に入る。手のひらに、あばら骨のやわらかい上下を感じる。呼吸が速い。菜津は自分の息を、わざと大きく、ゆっくりにした。そうたの息が、少しずつそれに寄っていく。

「耳まで、水につけていい。聞こえる音、変わるから」

 そうたの後頭部が水に沈む。髪がふわりと広がった。目だけが、天井の網の目を見ている。菜津の手のひらの上で、体がだんだん軽くなっていくのがわかった。水がそうたを、下から受け取り始めている。

 いま、と菜津は思った。

 言葉にはしなかった。ただ、支えていた手を、そうたに気づかれない速さで、水の中へ少しずつ引いた。手のひらと背中のあいだに、水がすべりこんでくる。そうたの体は、沈まなかった。

 一秒か、二秒か。

 そうたは、自分の背中の下に菜津の手がもうないことに、まだ気づいていない。天井を見たまま、大の字で、水の上にいる。胸が、静かに上下している。

「せんせい」

 そうたの口が、水面のすぐ上で動いた。

「なんか、みずが、もってくれてる」

「うん」

「せんせいの手、ある?」

 菜津は答えなかった。答えるかわりに、指先をそうたの髪にそっと触れさせた。それだけで、そうたは安心したように、また天井を見た。

 四隅のカメラが、その大の字を追っている。画面には、たぶんいくつかの数字が出ている。菜津はそれを見なかった。見なくても知っている。ここにあるものは、線にも数にもならない。手を離した、その離し方だけが、覚えている。

 そうたが、ふいに立ち上がった。水を跳ね上げて、両足で底を踏んで。

「せんせい! ぼく、ういた!」

「ういたね」

「もういっかい!」

 菜津はうなずいて、また膝を沈めた。そうたの手が、今度は自分から、菜津の手のひらを探しにくる。菜津はそれを、下から受ける。引っぱらずに。

 天井の網の目が、ゆれている。あの光がいつ、そうたの手を必要としなくなるのかは、まだ、わからない。

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