塩素のにおいが、天井の高いところにたまっている。
午後二時の市民プールは、光がよく回った。水面が波打つたびに、天井に網の目みたいな模様が走る。菜津はプールサイドにしゃがんで、そうたの足の甲を見ていた。小さな爪に、水滴がひとつ乗っている。
「せんせい、きょうは顔つけなくていい?」
そうたが上目づかいで聞く。七歳の、まだ前歯の抜けた口で。
「うん。今日はここに立ってるだけでいい」
菜津はそう言って、自分も膝まで水に入った。冷たさが脛を上っていく。そうたは浅い方の壁に背中をぴたりとつけて、両手で縁をつかんでいた。指の関節が白い。
*
このプールに、春から新しい機械が入った。天井の四隅に、水中の動きを読むカメラ。泳ぐ人のフォームを追って、腕の角度や蹴りのタイミングを画面に映してくれる。大人の教室では評判がいい。自分の泳ぎが線と数字になって返ってくるのは、たしかにおもしろい。
子どもの初心者クラスにも、その画面が置かれた。上のほうにいる誰かが、そのほうが指導の記録が残ると決めたらしい。菜津は一度だけ、そうたの様子をその画面に映してみたことがある。〈水への順応度・低〉と出た。まちがってはいない。ただ、そうたの前でそれを見るのは、二度目からやめた。
数字はそうたを励まさない。そうたを励ますのは、たぶん、もっと別のものだった。
*
「せんせい、水の中って、下に引っぱられる感じする」
「するね」
「せんせいも?」
「する。今もしてる」
そうたが少し笑った。笑うと、つかんでいた手の力がほんの少しゆるむのが、菜津には見えた。恐怖はたいてい、手や肩や、息の止まり方に出る。画面の外の、そういうところに。
「手、貸してごらん」
そうたは片手だけ縁から離して、菜津の手のひらに自分の手を重ねた。汗と水で、境目がわからないくらいぬれている。菜津はその手を引っぱらなかった。ただ、下から支えるように置いた。
「ぼく、うくのこわい。おっこちそうで」
「落ちないよ。水は、そうたのこと、ちゃんと持ち上げようとしてる」
「ほんと?」
「ほんと。力を抜くと、水のほうが仕事してくれる」
*
そうたが、ゆっくり背中を壁から離した。菜津の手が、その背中の下に入る。手のひらに、あばら骨のやわらかい上下を感じる。呼吸が速い。菜津は自分の息を、わざと大きく、ゆっくりにした。そうたの息が、少しずつそれに寄っていく。
「耳まで、水につけていい。聞こえる音、変わるから」
そうたの後頭部が水に沈む。髪がふわりと広がった。目だけが、天井の網の目を見ている。菜津の手のひらの上で、体がだんだん軽くなっていくのがわかった。水がそうたを、下から受け取り始めている。
いま、と菜津は思った。
言葉にはしなかった。ただ、支えていた手を、そうたに気づかれない速さで、水の中へ少しずつ引いた。手のひらと背中のあいだに、水がすべりこんでくる。そうたの体は、沈まなかった。
*
一秒か、二秒か。
そうたは、自分の背中の下に菜津の手がもうないことに、まだ気づいていない。天井を見たまま、大の字で、水の上にいる。胸が、静かに上下している。
「せんせい」
そうたの口が、水面のすぐ上で動いた。
「なんか、みずが、もってくれてる」
「うん」
「せんせいの手、ある?」
菜津は答えなかった。答えるかわりに、指先をそうたの髪にそっと触れさせた。それだけで、そうたは安心したように、また天井を見た。
四隅のカメラが、その大の字を追っている。画面には、たぶんいくつかの数字が出ている。菜津はそれを見なかった。見なくても知っている。ここにあるものは、線にも数にもならない。手を離した、その離し方だけが、覚えている。
そうたが、ふいに立ち上がった。水を跳ね上げて、両足で底を踏んで。
「せんせい! ぼく、ういた!」
「ういたね」
「もういっかい!」
菜津はうなずいて、また膝を沈めた。そうたの手が、今度は自分から、菜津の手のひらを探しにくる。菜津はそれを、下から受ける。引っぱらずに。
天井の網の目が、ゆれている。あの光がいつ、そうたの手を必要としなくなるのかは、まだ、わからない。