夕方になっても、アスファルトはまだ昼の熱を吐いていた。由起は母の手を引いて、公民館の坂をのぼった。
母の手首には、うすい灰色のバンドが巻いてある。はぐれると由起のスマホが鳴る仕組みだ。先月、母が一人で家を出て、三つ先の駅で見つかった。あの日から、母の手首にはこれがある。
「暑いねえ」と母が言った。
「うん、暑いね」
「あなた、どちらさん」
由起は少しだけ笑った。笑うのがいちばん角が立たない。三日前は名前を呼んでくれた。昨日は「お姉さん」だった。今日はどちらさん。日によって、由起は母の中でいろいろな人になる。
*
境内には、やぐらが組まれていた。
太い丸太を縄で縛って、四方に紅白の幕を巻いてある。てっぺんに赤い提灯が下がって、風もないのにかすかに揺れていた。由起が子どものころから、この祭りのやぐらだけは、形が変わらない。
母は立ち止まって、それを見上げた。
スピーカーから、なめらかな声が流れていた。迷子のお知らせ、露店の場所、水分をとってください、という注意。抑揚が正確すぎて、人の声には聞こえない。母はその声のほうを、少しのあいだ、けげんそうに見ていた。
「お母さん、座ってようか。あそこ、日陰だよ」
母は答えなかった。手首のバンドを、もう片方の手でいじっている。爪の先で、ひっかくように。
*
太鼓が鳴った。
最初の一打で、境内の空気が変わった。やぐらの上で、ばちを持った人影が身をかがめる。二打、三打。間をあけて、また一打。
母の背が、すっと伸びた。
由起は気づかなかった。母がいつ、自分の手を離したのか。気づいたときには、母は人の輪のほうへ、二歩、歩き出していた。
「お母さん」
呼んでも、振り向かない。
笛が重なって、音頭が始まった。輪ができていく。浴衣の背中、Tシャツの背中、車いすの人、抱かれた赤ん坊。みんなが同じ方向に、ゆっくり回りはじめる。
母が、その輪に入った。
由起は息をのんだ。母の手が、上がった。ひらいて、返して、胸の前で合わせて、また開く。足が、半歩出て、とんとん、と地を踏む。前の人の動きを見てはいない。見なくても、手が知っている。
名前を忘れた手が、踊りだけを覚えていた。
*
由起は、踊れない。
子どものころ、母は毎年ここで踊っていた。輪の内側で、母の手はいつもいちばんきれいに返った。由起は縁石に座って、綿あめをなめながら、それを見ていた。いつか教わろうと思って、教わらないまま、大人になった。
母の手首で、灰色のバンドが、いつのまにかなくなっていた。
由起はあわてて足元を見た。人に踏まれた土の上に、それは落ちていた。留め具がはずれて、口をあけている。母が、自分ではずしたのだ。誰の手も借りずに。
拾おうとして、由起はやめた。
輪の中の母は、迷子ではなかった。三つ先の駅で立ちすくんでいた人と、同じ人とは思えなかった。行き先を、母はちゃんと知っている。この輪を、右へ、ゆっくり回っていけばいい。それだけを、体が覚えている。
*
由起は立ち上がった。
輪の切れ目から、母の後ろに入る。やぐらの提灯が、頭の上でゆれていた。
手を上げてみる。ひらいて、返す。ぎこちない。とんとん、と足を踏むと、拍がずれる。前を行く母の背中は、振り向かない。振り向かないまま、少しだけ、動きをゆるめた。
由起の拍が、追いついた。
母が、小さな声で音頭を口ずさんでいる。歌詞ではない。ふしだけ。低い、湯のようなふしだった。それを、由起はいつのまにか、口の中でなぞっていた。子どものころ、縁石で聞いていたはずのふしを。
やぐらは動かない。人だけが、そのまわりを回っていく。太鼓が鳴り、提灯が揺れ、母の背が、由起の少し先を行く。
この輪が、いつまで続くのかは、わからない。来年、母がここに立てるかも、わからない。
でも今は、母の後ろにいる。ふしを合わせて、同じ方向へ、回っている。
母の手が、また、きれいに返った。