引き出しの奥から、それは出てきた。暑中見舞いのはがきだった。表に宛名だけが書いてある。裏は、途中で止まっていた。
正夫は老眼鏡をかけ直した。妻の千代の字だった。丸くて、右上がりで、はねの弱い字。「暑中お見舞い申し上げます」の下に、「今年の夏は」とだけあって、あとは白い。
千代が逝ったのは、春だった。桜より少し前。だからこのはがきは、去年の夏に書きかけて、そのまま忘れられていたものだ。宛名は、千代の女学校時代の友人。年に一度、便りだけが続いていた人。
正夫は、はがきを日に透かした。インクは薄れていない。ただ、続きがない。
*
台所のカウンターに、小さな機械がある。娘が置いていったものだ。話しかければ、たいていのことは答える。天気も、薬の飲み合わせも、遠くの孫の顔も。
正夫ははがきを持って、その前に立った。
「これの、続きを」
言いかけて、口をつぐんだ。機械は待っている。正夫は少し考えて、言い直した。
「千代の字で、この続きを書くことは、できるか」
機械は静かに答えた。残された字を読み取れば、筆跡に近づけて文面を整えることはできます、と。何通か書いたものがあれば、より近づけられます、とも。
戸棚に、千代の書いたものはいくらでもあった。買い物のメモ、家計簿、正夫あての一言。全部とってある。捨てられなかった。
「……いや」
正夫は言った。自分でも、なぜそう言ったのか、すぐにはわからなかった。
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その晩、正夫は机に向かった。万年筆を出した。千代のではない。自分の、ずっと使っている古いやつだ。インクが少し出にくい。振って、試し書きをして、かすれるのを紙の隅で確かめた。
「今年の夏は」——千代の字の、そのあとに。
正夫の字は、角ばっている。千代のとは似ても似つかない。並べれば、途中から書き手が変わったのが、誰の目にもわかる。
手が止まった。何を書けばいいのか。千代なら、庭の朝顔のことを書いただろうか。孫が歩きはじめたことを。それとも、ただ、お変わりありませんか、と。
正夫は、朝顔のことを書いた。今年もよく咲いている、と。千代が植えた種の、こぼれ種から。それは本当のことだった。
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書きながら、正夫は思い出していた。千代はいつも、はがきの下のほうを、少し空けて書く人だった。ぎっしり埋めない。最後の二、三行を、白いまま残す。
なぜだと、一度きいたことがある。千代は笑って、こう言った。全部書いたら、相手が返事を書くとき、窮屈でしょう。余白は、あなたのために空けてあるのよ、と。誰に宛てるときも、そうだった。
正夫は、自分の字で埋まっていくはがきを見た。角ばった字が、下のほうへ、下のほうへと進んでいく。
そこで、手を止めた。
まだ、三行ぶんの白があった。
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正夫は、そこで筆を置いた。埋めなかった。
宛名の友人が、これを受け取ってどう思うか。途中から字が変わっているのを、いぶかるだろうか。それとも、察するだろうか。千代のことを、まだ知らせていなかった。この一枚が、知らせになる。
いや、と正夫は思った。知らせにするには、言葉が足りない。この余白では、何も言っていないに等しい。
けれど、機械に頼めば、きっと過不足のない、きれいな文面になった。千代の字で、時候のあいさつも、近況も、結びの一言も、行の終わりまで整って。受け取った人は、何も気づかず、いつもの夏だと思ったかもしれない。
それは、たぶん、親切なのだ。正夫にはわかっていた。わかっていて、しなかった。
*
翌朝、正夫ははがきをポストに入れに行った。角の赤いポストまで、ゆっくり歩いた。蝉が鳴いていた。
投函する前に、もう一度、裏を見た。丸い字と、角ばった字。そのあとの、三行の白。
その白いところに、千代なら何と書いただろう。正夫にはわからなかった。わからないから、空けておいた。埋めるのは、自分ではない気がした。
はがきは、ことりと音を立てて、暗いなかへ落ちた。
正夫は、しばらくポストの前に立っていた。返事が来るかどうかは、わからない。来たとして、その人が、あの余白に何を書いてくるのかも。
朝顔が、塀のそばで咲いていた。東を向いて。正夫は、それを一つ、指でそっと持ち上げてみた。