夕方の五時を過ぎると、松の湯の脱衣所に西日が差した。すりガラスを通した光は角がなくて、床のタイルをぼんやりと橙に染める。澄江は番台の高い椅子から、その色が少しずつ濃くなっていくのをながめていた。
湯を張る音が、壁の向こうから低く響いている。四十七年、毎日聞いてきた音だった。耳ではもう聞いていない。体のどこかが、その音で「そろそろだ」と分かる。
暖簾を出して、澄江は椅子に戻った。
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最初に来たのは、坂の上の田村さんだった。杖を框に立てかけ、小銭を数えて台に置く。四百八十円。指が少し震えて、五円玉が一枚、床に落ちて転がった。
「いいのいいの、そのままで」
澄江は身を乗り出して拾い、田村さんの手のひらに戻した。乾いた、薄い手だった。
「今日は膝の調子、どう」
「雨の前は、だめだねえ」
「明日、降るかしらね」
「降るよ。ほら、燕が低い」
田村さんは笑って、脱衣所の奥へ消えていった。背中が、去年より少し丸い。澄江はその背中を、いつも同じ気持ちで見送る。うまく言葉にならない気持ちだった。
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孫の亮が、先週この番台に座ったことがあった。町の向こうにできた新しい風呂屋で働いている。下足箱は顔をかざすだけで開いて、湯の温度は画面で選べるのだと、亮は嬉しそうに話した。
「ばあちゃんとこも、自動にすればよかったのに。もう遅いけど」
そう言って、亮は番台の帳面をめくった。誰がいつ来たとも書いていない、ただの走り書きの帳面だ。
「これ、何が書いてあるの」
「なんにも。湯の加減とか、それだけ」
本当は、それだけではなかった。田村さんの膝のこと。角の内藤さんが最近来ないこと。金曜の夜は工事の人たちで混むこと。書いていないぶんは、澄江の頭の中にあった。四十七年ぶんの、誰にも渡しようのない帳面が。
亮には、そう言わなかった。言っても、うまく伝わらない気がした。
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六時をまわると、脱衣所が賑わってきた。仕事帰りの男が二人、常連の親子連れ、それから、はじめて見る若い女がひとり。女は勝手が分からないようで、番台の前で立ち止まった。
「あの、初めてで」
「タオル、そこで貸してますよ。石けんも」
「はい……あの、ここ、今月で終わりって、貼り紙に」
澄江はうなずいた。貼り紙は、自分で書いて、自分で貼った。角の丸い字で、ありがとうございました、と。
「長いことやってきたから。もう、いいころ合いでね」
女は少し困った顔をして、それから、そうですか、と小さく言った。何か言おうとして、言葉が見つからないみたいだった。澄江は、その困った顔が、なんだか好ましかった。
「ゆっくり入ってらっしゃい。今日のお湯、いいから」
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夜が更けて、客がまばらになった。澄江は洗い場をのぞきに行く。誰もいない湯船から、湯気が立ちのぼっていた。天井へ向かって、ゆっくりと、形を変えながらのぼっていく。窓の下のほうに寄って、また散っていく。
鏡が白く曇っていた。誰かが指で書いたのだろう。ハート、と、下手な字で「またね」。子どもの手だ。澄江は指で、その横に丸をひとつ描いた。
湯気は、どこへ行くのだろう、といつも思う。天井にしみて、消えていくように見えて、たぶん、どこかへは行っている。温かいものが、冷たいものに触れて、混ざって、見えなくなるだけで。
四十七年、この湯気を見てきた。数えたことはない。数えるものでもなかった。
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田村さんが帰るとき、澄江はいつものように番台から見送った。杖の音が、框を越えて、暗い町へ出ていく。
「また来るよ」と田村さんは言った。
「ええ」と澄江は言った。今月で終わる、とは言わなかった。田村さんは貼り紙を、見ただろうか。見ていないような気もした。見ていて、言わないでいるような気もした。
暖簾を、まだしまわなかった。もう少し、出しておくことにした。西日はとうに落ちて、脱衣所には裸電球の色だけが残っている。奥から、また湯を張る音がした。
体のどこかが、そろそろだ、と言う。何のそろそろなのか、澄江にはもう、よく分からなかった。湯気が、天井のほうへのぼっていく。それを、しばらく見ていた。