アスファルトの匂いが、先に来た。
実咲が商店街を抜けようとしたとき、風がひとつ、生ぬるく通り過ぎた。手のなかの画面は、今日いちにち晴れの印を並べていた。傘は持っていない。それでも足を速めなかったのは、まだ大丈夫だと画面が言っていたからだ。
最初の一粒が首すじに落ちて、二粒目が来るまでの間が、ひどく短かった。
次の瞬間、雨は音になって降ってきた。実咲は近くの布屋の軒下へ駆け込む。古い店で、庇が深い。走り込んだ勢いのまま、先客の肩にぶつかりそうになって、足を止めた。
「――ごめんなさい」
言いかけて、声が止まった。
*
「実咲?」
千夏だった。前髪の先から雫が落ちている。手にはやはり、傘がない。
「うそ。ぜんぜん降らないって言ってたのに」
千夏は笑って、濡れた画面を実咲に見せた。晴れのまるい印が、いくつも並んでいる。ふたつの画面が、同じ嘘をついていた。
「ほんとだ」
実咲もつられて笑った。笑ってしまってから、七年ぶりだと気づいた。
高校のとき、二人は同じ写真部だった。フィルムを現像する暗室の、赤い電球の下。ピントの合わせ方を、実咲は千夏に教わった。卒業して、実咲は遠くの街へ出た。最初のうちは連絡を取り合っていた。ある時期から、実咲が返さなくなった。理由らしい理由はない。忙しさに紛れて、返さないことに慣れた。そのまま七年が経った。
*
雨は勢いを増して、庇から水が幕になって落ちた。二人のいる場所だけ、世界から切り離されたように静かだ。
「元気だった?」と千夏が聞いた。責める色はどこにもない。ただ、聞いていた。
「うん。……そっちは」
「わたしも」
それきり、少し黙った。水の音が会話の隙間を埋めた。実咲は、謝るべき言葉を胸のなかで探した。あのとき返さなくてごめん。そう言えばいいのに、口にすると軽くなってしまう気がして、言えなかった。
千夏が、ふと軒先に手を伸ばした。落ちてくる水を、手のひらで受けている。
「これ、覚えてる? 夕立のあと、部室の窓から撮ったやつ」
覚えていた。濡れた路面に、傾いた光が反射して、街がもう一枚、下にできていた写真。千夏がシャッターを切って、実咲が「うまい」と言った。ただそれだけの午後。
「あの写真、まだ持ってる」と実咲は言った。
千夏は手のひらの水を見たまま、少しだけ目を細めた。
「そっか」
その一言に、責めも許しもなかった。ただ、そこにいてくれたことへの、静かな返事のようだった。
*
雨は、来たときと同じくらい唐突にやんだ。
庇の水がひとしずくずつになって、やがて止まる。日が戻って、路面が光った。濡れたアスファルトに、店の看板や電線や、傾いた空が映り込んでいる。あの写真と同じ、もう一枚の街だ。
「あ」と千夏が声を上げて、鞄から古い型の携帯を出した。画面の割れた、ずいぶん使い込まれたものだ。しゃがんで、水たまりに映る空へレンズを向ける。シャッターの音が、乾いた空気にひとつ響いた。
「相変わらず、自分で撮るんだ」と実咲が言った。
勝手にきれいに直してくれる機能なんて、いくらでもあるだろうに。千夏は立ち上がって、撮ったばかりの一枚を実咲に見せた。ピントは少し甘くて、右のほうが傾いていた。
「うん。これがいいの」
千夏は、なんでもないことのように言った。
*
商店街の先で、二人はどちらからともなく足を止めた。行く方向が、違う。
「じゃあ」と千夏が言う。
「うん」
連絡先を交換しよう、とは、どちらも言わなかった。実咲はそれを、少しさびしいと思い、少しほっとした。また七年、会わないのかもしれない。あるいは、明日また、どこかの軒下で。
千夏が手を振って、濡れた路地の向こうへ歩いていく。その背中が角を曲がって消えるまで、実咲は見ていた。
足元の水たまりに、空が映っている。実咲はしゃがんで、そこに手のひらを浸した。冷たい。指のあいだから、街の映った水がこぼれていく。
あの写真を、今度こそ千夏に送ろうか。そう思って、まだ、決めかねている。
水面が揺れて、映っていた空が、少しだけかたちを変えた。